心の世界の探究 目次 七つの封印 The Seven Seals



◆◆◆ 4-⑫空(くう)と無(む)の思想 ◆◆◆

2011.03.08 窪田光治

はじめに
① 化石化した仏教 ② 空と無は縦糸と横糸の関係

1.空の思想
1-1ネットで調べた『空の思想』
1-2 真説『空の思想』
① 空/本質の存在-すなわち理念、エネルギー、仏性、神性
② 空/本質が存在する空間-高次元世界の存在
 ③ 空/エネルギーと理念、仏性、神性
④ 空/死後の世界


2.色即是空、空即是色-諸行無常/人間の輪廻転生
2-1 実在界とこの世の関係
 2-2 高次元と低次元を貫くエネルギーの輪廻転生
① 諸行無常と万人に共通の時間軸 ② エネルギーの輪廻転生 
③ 真説『空の思想』の整理

3.無の思想/無我とは何か
 3-1ネットで調べた『無の思想』
3-2真説『無の思想1』心の在り方としての無-無我
① 宗教の目的 ② 釈迦の八正道
 ③ 正しさとは何か ④ 魂の開放 ⑤ 無とは何か ⑥ 無の獲得
 ⑦ 無我と諸法無我における我とは何か ⑧ 無我の境地とは何か

3-3 真説『無の思想2』-時間/意識/存在-そして無
① 無という概念の誕生 ② 物に時間が無い場合
 ③ 意識に時間が無い場合 ④ 変化とは時間を内包したエネルギーである
⑤ 一瞬にして消える世界、宇宙という実在/宗教的な存在論


4.心の向上を志す者にとって、「空と無の思想」とは何か

終わりに


はじめに

 空と無という言葉を聞いたことがある人は多いと思います。そしてなにやら哲学的な響きを持つため、悟りそのもの、または悟りに至る大切な概念、というような漠然とした思いを持つのではないでしょうか。悟りと言えば言えないことはありませんが、しかしそれは入り口の話であり、永遠の心の探究・修行として考えたとき、それは真の学びのための原点にしか過ぎません。

 空と無の思想に関する私の見解を読めば、たちどころに読者は理解し、何だそんなことだったのか、そう思われるはずです。釈迦が衆生に説いた時代と現代を比較すると、思想的にも、文化的にも、科学的な知識においても、現代の普通の人は釈迦の時代の庶民と全く異なるのです。

① 化石化した仏教

 おそらく仏教学者や哲学者は私の見解に対して、それは違うと言うでしょう。何故なら、私の見解は思想でも哲学でも無いからであり、現代人の理解力をもってすればごく当たり前の事ですから、議論になりません。従って、私はどちらが《真の空と無の思想》かを争うつもりは全くありません。

 教養や知識がほとんど無く、読み書きができない当時の普通の庶民相手に釈迦が講演し、あるいはそれまで普通の庶民だった人を弟子とし、その弟子達に語った言葉を編纂したのが仏教という宗教の基になっています。ですから、本来は庶民が理解できない難解な思想を語ったのではありません。

 そのような時代背景と、その後、仏教が多くの言葉に訳され変遷してきた歴史、そして何よりも数千年という時間の中で、人間の知と意によって歪められてきた背景があることを理解した上で、仏教の言葉を考える姿勢が大切だと私は思います。

② 空と無は縦糸と横糸の関係

 先日、私が経営する会社の幹部の一人が脳梗塞で入院しました。幸いに回復が可能な程度なので安心しましたが、それでも最低一年以上はかかると思われます。その数ヶ月前には彼の奥さんがやはり軽い脳梗塞で入院しました。彼のお母さんも、10年ほど前に植物人間になったままです。

 私が死後の世界の話をすると、彼は一笑に付します。彼だけでなく、実際には多くの方がそうです。精神世界の友人を除き私の生活圏または身近にいる人で、死後の世界を確信している人は皆無です。長女はかなり精神的な世界が理解できるレベルに達していますが、死後の世界を確信しているようにはまだ見えません。

 人間は病気をしたり、経済的あるいは精神的な苦悩という人生の砥石によって磨かれ、この世の成長過程で付着した心の錆と垢を落とすことで、この世の表面的な現象の奥に、実は見えざる実体、理念、エネルギーが存在するのだという事が次第に感じられるようになっていきます。

 結論を言うと、実はこれが『空』であり、見えないものをより確かに正しく観るための心の持ち方、これが『無』であるのです。空に迫るための無であり、縦糸と横糸の関係にあります。では、空と無の本論に入ります。


1.空の思想

 般若心経にある『色即是空、空即是色』という言葉にある《空(くう)》について、その本来の意味、釈迦が言わんとした意味について考えてみましょう。この空の核となる意味が正しくわかると、色々なことが容易に理解できるようになると思います。

 その前に、釈迦の教えが化石化してしまい、哲学として思想として如何に難解なものになってしまっているかを観てみましょう。もちろん、難解であるということは、正しさとは無関係なことです。本来、易しいことは易しい言葉で語るべきであり、易しいことを難解にしてしまったのは、本来の意味がわからなくなっているからです。

 その混乱ぶりを確認した上で、私の真説『空の思想』を読めば、空という意味が如何に当たり前の事であるのか、容易に理解できるでしょう。


1-1ネットで調べた『空の思想』  <Top Page>

 ネットで調べた空の意味を紹介します。その文章を読んで、理解できる人はいないだろうと思います。それを無理に理解しようとするところに、物事を難しくしてしまう要素、哲学的な論理をひねくり回していく要因があると私は思います。

① 空 (仏教) - Wikipedia から抜粋1

 仏教の空(くう、梵: शून्य、巴: शुञ्ञ)とは、固定的実体もしくは「我」の無い事や、実体性を欠いている事を意味する。空は時代や学派によっていくつかの概念にまとめられるが、その根本的な部分ではほぼ変わらない。

◆ 抜粋1について

 固定的実体、我、実体性、という言葉遣いそのものに問題があります。固定的実体とは、本来の何か実体があって、それが固定されているか、されていないかを問題にする言葉です。例えば、実体を仮に《水》とすると、固定された実体とは《氷》である事になります。

 従って、実体性を欠いているとは、実体が無い、という意味となり、すなわち何もないという意味になります。

 空とは何もないという意味であるとすると、『色即是空、空即是色』という言葉に矛盾が生じます。後ほど説明しますが、色とは目に見える物質または現象を指す言葉であるのですが、そうすると、物質とは在るように見えて実は本来何もない、本来何もないのに実際は物質がある、そういう意味の言葉になってしまい、論理性を欠き、全く理解できない説明になっていきます。

 更に《我》という言葉も諸説があり、聞けば聞くほど本当に分からなくなるだろうと思います。《無我》という言葉がありますが、本来の正しい意味の《我》があり、それが無いという意味です。従って、無我は何も無いという意味ではありません。これは、《無》と深い関係がありますから、そこで考察してみたいと思います。

 更に、空について別の説明を見てみましょう。

② 空 (仏教) - Wikipedia から抜粋2

仏典の用例 [編集]

「自我に執着する見解を破り、世間を空として観察せよ」 -- 『スッタニパータ』

「空虚な家屋に入って心を鎮める」 -- 『法句経』

「常に気をつけて、世界を空であると観ぜよ」[1] -- 『法句経』

「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空ではない(残るものがある)」 -- 『小空経』(中部経典、中阿含経)

欠如と残るものとの両者が、空の語の使用と重なり説かれている。これから空を観ずる修行法が導かれ、空三昧(ざんまい)は無相三昧と無願(無作)三昧とを伴い、この三三昧を三解脱門(さんげだつもん)とも言う。
・・・・・・・・・・

◆ 抜粋2について

 筆者は仏典についての知識が全くありません。空という言葉を、ものが欠如している状態という意味であるとしていますが、実に空しい修行方法だと私は思います。そこから、何かを得ることができるのか、何かを悟ることができるのか、非常に疑わしいと私は思います。

 ある人が、空と観ぜよ、と言いました。弟子が、分かりました、空と観じました、言ったとします。お互いに何かを悟った気分を味わう事ができるかも知れませんが、これでは自慰的行為と何ら変わりありません。

 牛は居ないから空である、比丘(男性の僧侶)は居るから空ではない、としているのは実に滑稽な説明であり、釈迦がこのような言葉遊びをしたわけがありません。しかし、この様な空虚な解釈と説明をせざるを得ないほど、混乱し、分からなくなっているのです。自ら掘った落とし穴に堕ちて、なんとか這い上がりたいともがいている姿に似ています。

 続いて、更に別の説明をみてみましょう。


③ 空 (仏教) - Wikipedia から抜粋3

空とは何か [編集]

 「空」の概念は非常に難解であるが故に、しばしば「虚無(無)」と混同されがちである。しかし本来は全く異なる概念であり、むしろこの虚無も「空」によって成立する物事の一部である。般若心経の一節「色即是空 空即是色」は、「すべての物事(色)は空によって成立しており、空こそがすなわち物事(色)である」というような意味であるが、この一節こそが空をもっとも的確に表現している。

 例えば、そこらの草木を建材として庵を結ぶ場合、庵が出来上がれば庵という現象が成立していることになる。しかし、庵を分解して草木にしてしまえば、庵という現象は成立していないことになる。つまり、庵は「存在している」とも言えるし、「存在していない」とも言える。これこそが竜樹の解釈による「空」の概念である。この世のすべての物事(色)は相互に因縁によって結びつき、ある現象を構成している。つまりこの因縁の関係性こそが「空」なのである。

◆ 抜粋3について

 = 竜樹の解釈による「空」の概念である。= と説明があるように、これは竜樹個人の解釈であり、釈迦が本来意図した意味ではありません。竜樹とは、インド仏教の僧の一人と記されており、竜樹菩薩として知られているようです。

 また、=「空」の概念は非常に難解であるが故に、しばしば「虚無(無)」と混同されがちである。= とあります。虚無とは一切何もない、すなわち真空を指す言葉だと思います。空とは虚無ではないとしているのですから、一切何もないのではなく、何かがある、ということを示唆しています。その何かが空だと言っているのです。という事は、その何かとは空の本質であることになります。ですから、抜粋1、抜粋2で示したように『空とは、実体が何もない、実体が欠如した状態という意味』、と正反対の主張であるように見えます。

 竜樹は結論として、物事全ては相互に因縁で結びつき、その因縁の関係性が「空」であるとしています。因縁とは、本来、因果関係を指し、なぜそうなったのかという原因と結果の相互関係を示す言葉です。従って、『因縁の関係性』と言ってしまうと、関係性の関係性と言っているに等しくなり、理解不能になります。空という因縁の関係性とは何か、空の本質について何ら述べられていません。理解できない論理だから、これ以上の説明ができなくなるのです。

 これでは、空という意味を、誰も論理的に理解はできないでしょう。

④ 空 (仏教) - Wikipedia から抜粋4

般若経の空 [編集]

『般若経』が説かれて初めて大乗仏教の根幹をなす教えが完成した。その中で、空が繰り返し主張されている。その原因の一つは、この経典を編纂した教団が批判の対象とした説一切有部の教えが、存在を現に存在するものとして固定化して観ずる事に対して、厳しい否定を表し、一切の固定を排除し尽くすための事であろうと考えられる。『般若経』の空は、このように全ての固定的観念を否定する事を主目的としている。

◆ 抜粋4について

 = 存在を現に存在するものとして固定化して観ずる事に対して、厳しい否定を表し= とあります。

 これは、諸行無常、すなわち万物は一時も休まず変化していく、やがて消滅していくという仏教の教えに矛盾を生じさせない、という意味で言ったのであろうと推測できます。物事を固定化して考えてしまいがち、あるいは固定化して観てしまうという事に対する、警告として空の教えがある、諸行無常の教えの手段としての空である、という意味の説だと思います。

 もちろん、空にはそういう側面もあるのですが、そのような消極的な意味で空という言葉が使われているのではありません。空とは、もっと積極的な意味を持ち、物事の本質にかかわる大事な概念であるのです。諸行無常はこの世から見た表面的な現象であり、『色(しき)』は諸行無常であると言っているに過ぎません。

 空はより本質的な事を指す言葉であり、空の思想こそ、この世の成り立ち、あの世の存在、宇宙の真の姿を喝破した《大いなる悟りであった》のです。しかし、小学生でも科学の基本的なことを知っている現代人にとっては、空はごく当たり前の概念であり、現代では悟りでもなんでもないのです。

 現代人は科学的領域における空を理解しつつあります。しかし、次元の異なる世界の存在、すなわち人間の本質は霊であり、霊の世界が存在するという事実を信じられない人が多い、これは物質文明に惑わされている結果であると思います。

 ネットで調べると他にも沢山の空に関する説があります。この様な説明は理解できないのが本来正しいのですが、不思議なことに、難解にすることで空を理解したと錯覚する人々(学者・研究者)が居るのです。それだけでなく、歴史的に哲学や思想として延々と論じられてきたのです。

 空の概念とは何か、全く分からなくなってしまっています。この混乱を知った上で、以下に示す私の真説『空の思想』を読んでみてください。


1-2 真説『空の思想』      <Top Page>

① 空/本質の存在-すなわち理念、エネルギー、仏性、神性

 目に映る様々な現象、あるいは様々な物質と生命、すなわちこの世の全てのものは何の意味もなく存在しているのではありません。その背景には《存在させている何か》がある、これを理念と言っても良いし、エネルギーと言っても良いし、仏性・神性と言っても良いでしょう。そのものを《存在あらしめている理念》は、全てのものの一生を通じて変化しません。

 ひまわり種を蒔けば、ひまわりの芽が出て、ひまわりの姿として成長し、やがてひまわりの花が咲きます。しばらくすると、種を遺して枯れてしまい、ひまわりという形は消滅します。つまり、刻々と姿形は変化して行きますが、《ひまわり》という理念、エネルギー、仏性、神性は変化せず、更に種の中に遺伝子として残ります。種が消滅しても、その理念は実在界に厳然として存在し、かつ永遠に残っていきます。

 この世における森羅万象あらゆるものは、一時も休まず変化していく、すなわち諸行無常なのですが、その中で、目には見えない変化しないもの、存在をあらしめている本質が厳然として存在するのです。三次元世界から観たとき、見えない世界にその本質が存在する、これが空の本来の意味です。

② 空/本質が存在する空間-高次元世界の存在

 ひまわりの種が消滅しても、その理念は存在します。理念が存在するから、ひまわりという植物がこの地上に存在するのです。では、その理念、エネルギー、仏性、神性とはどこに存在するのでしょうか。

 目には見えない、この空間に存在しています。この三次元物質世界と重なるように存在する四次元以降の高次元的存在としてそれは存在しているのです。すなわち、『空』とは、目に映るものの存在をあらしめている目に見えない理念、エネルギー、仏性、神性が存在し、その理念が存在する『空間・高次元世界』を意味する言葉でもあるのです。

 何故かというと、ひまわりというものが地上に誕生したのは、実在界でまずその理念が創られ、実在界におけるひまわりという生命体が創られ、その後、それが地上・三次元世界へ投影されて、地上にひまわりという植物が誕生したからです。

 ですから、『空』と観ぜよ、と言ったときは、物事の背景にある本質すなわち理念・エネルギー・仏性・神性を観よ、そしてその理念が存在する実在界を意識せよ、という意味になるのです。

③ 空/エネルギーと理念、仏性、神性

 空をもう少し正確に捉えてみたいとおもいます。

 理念、仏性、神性というものもエネルギーである事に間違いありません。それでは単なるエネルギーと何が異なるかと言えば、ある一定の質と方向性を持つエネルギーだということです。

 一定の質とは次元の高さであり、一定の方向性とは神の計画・意図・理想を意味します。これは、ものを創造するという場合、どんなものを創りたいのかという、作り手の希望や願いや企画の事です。

 ですから、様々なものには、創造者の念いが宿っています。創造者は高次元の神ですから、これを仏性あるいは神性と呼ぶわけですが、理念と言ってもエネルギーと言っても、同じ意味になるわけです。

 さらに、この世の物質は全てエネルギーでできあがっています。現代の物理学はそれを証明しており、小学生でも知っていることです。原子核分裂、あるいは核融合によって莫大なエネルギー取り出し、実際に私達の身近な所で既に応用されています。

 エネルギーという原料に理念を吹き込む事によって、エネルギーが様々な形で固定化され、物というものができあがっているのです。そして、空の概念を生命の領域において考えるとき、死後の世界すなわち実在界がこの世から観た『空』であり、それは次元が上昇しても全く同じ事が言えるのです。

 すなわち、死後の世界においても、その霊人の住む次元から見たとき、その上の次元世界は見えない世界であり、高次のエネルギーの世界ですから、これまたすなわち『空』なのです。

 前回のテーマ、『実在界の本質』その中の『11-3 創造と破壊の法則-エネルギーの集中と発散』を参照してください。

④ 空/死後の世界

 人間は死んで肉体が消滅しても、その本質は霊魂としてあの世という世界へ行き、そこで生活するのだよ、と釈迦は教えたかったと思います。

 肉体が人間の本質ではなく、目に見える肉体と重なるように目には見えない人間の本質、すなわち霊魂が宿っており、死後にその霊魂は霊界へ行く、極楽浄土や地獄という世界があるのだよ、人間の本質は霊魂なのだよ、人間だけでなく動物や植物、そして石ころまで、仏性が宿っているのだよ、と。

 それを拡大解釈すると、私が前回のテーマで論じた『実在界の本質』というものになるのです。ですから、ネットで引用した=固定的実体もしくは「我」の無い事や、実体性を欠いている事を意味する。=などという意味ではなく、むしろ正反対の意味であるのです。いかに、仏教の言葉が理解できないものに変質しているかが、お分かりになったと思います。

 《空》が分かると、次々と理解が広がっていきます。次に『色即是空、空即是色』という有名な言葉を理解し、整理してみたいと思います。


2. 色即是空、空即是色-諸行無常/人間の輪廻転生

 ここまで、単に空についてのみ、考えてきました。もう少し、広い視野で観てみましょう。


2-1 実在界とこの世の関係  <Top Page>

 森羅万象すなわちこの世に存在するあらゆるものは、一時も休まず変化していく、これを諸行無常と言います。その変化していく《もの = 色(しき)》の背景には、目には見えない変化しないもの、存在をあらしめている《本質》が厳然として存在する、これを空と釈迦は呼びました。

 人間の本質は霊であり、永遠不滅の命を持つ。この場合、肉体は目に見えるものですが、目に見えない霊が人間の本質であり、肉体が変化し衰え消滅しても、霊は変わらずに残ります。すなわち、この場合の空とは、霊の世界、すなわち実在界を指す言葉となります。

 ですから、般若心経にある『色即是空、空即是色』という言葉は、この世という世界の背景には目には、見えない霊的世界すなわち空の世界があり、人間はその空の世界からこの世に生まれ、また肉体が滅びると空の世界へ還る、そしてまた生まれてくる、という循環すなわち人間の輪廻転生を意味したものであることが分かります。


2-2 高次元と低次元を貫くエネルギーの輪廻転生  <Top Page>

 しかし、『色即是空、空即是色』とは、目に見えない実在界と目に見えるこの世・三次元世界を循環する人間の本質=霊魂の有様を指す言葉だけではないのです。

① 諸行無常と万人に共通の時間軸

 この世の物質は全て、神の意志により、本来は目に見えないエネルギーを固定したものです。誕生、生成、風化、消滅というように常に《変化するという仕組み》が内蔵されています。すなわち、諸行無常が三次元この世の宿命であり、諸行無常という現象を介して、《万人に共通な時間軸》を形成しているのです。

 余談ですが、あの世すなわち実在界における時間軸は万人に共通ではないのです。

② エネルギーの輪廻転生

 ですから、《物質とエネルギー》もまた『色即是空、空即是色』であり、目に見えない実在界と目に見えるこの世・三次元世界を循環しているのです。すなわち、宇宙に満ちているエネルギーは次元を越えて輪廻転生している事になります。

 エネルギーは波動ですから、その周波数の帯域や組合せによって、理論的に無限の次元が構成されます。実在界は、四次元(幽界)、五次元(善人界)、六次元(神界)、七次元(菩薩界)、八次元(如来界)、九次元(宇宙界)、十次元(惑星意識)、十一次元(恒星意識)、十二次元(銀河意識)、・・・・・・・と次元が構成されていると聞きます。

 余り高次元の事は分かりませんが、様々な霊界通信や霊言書から読み取れることは、各次元ごとに《霊界の物質》があり、霊人は形と色を認識し、かつ触れたときの触感を持つ事が分かります。

 ある次元の霊人はその次元の物を識別できますが、その上の次元にあるものを認識することはできません。その霊人にとって、上の次元はあの世の世界であり、エネルギーの世界です。すなわち、各次元もまた『色即是空、空即是色』であるのです。

 この事については、前回のテーマ実在界の本質で詳しく考察しましたので、参照してください。

③ 真説『空の思想』の整理

 目に見える存在を色(しき)と言う。その色の存在の背景には、その存在をあらしめている理念(エネルギー、仏性、神性)が存在する。空(くう)とはその理念の存在または理念が存在する次元・空間を意味する言葉である。その空間とは神の体であり、高次元・多次元宇宙全体を指す。

 『色即是空、空即是色』とは、空という背景があって空から色が生じ、色は滅して再び空へ還る。すなわち、物質(霊界の物質を含む)は滅しても、目に見えないエネルギーとして残り、目に見えないエネルギーは再び理念によって固定化され、物質となる。すなわち、物質とエネルギーは輪廻転生する。また人間も同じであり、肉体は滅びても霊魂として残り、霊魂は再び肉体に宿り、進化のための輪廻転生をくり返す。

これが、『空』であり『色即是空、空即是色』という釈迦の言葉なのです。

 これで、空についての考察を終わりますが、空の思想こそ、この世の成り立ち、あの世の存在、宇宙の真の姿を喝破した《大いなる悟りであった》のです。

 現代人は、既に空を理解しています。科学者は、遙か彼方の宇宙、微生物の世界、分子化学の世界、エネルギーと物質を論じています。そういう次元の異なる世界、目に見えない世界の存在を誰でも知っているのです。すなわち、私達は既に空の世界があることを知っていると言えるのです。そして、その存在を信じています。

 しかしながら、あの世の存在と霊魂が信じられないのは、物質文明に迷わされている、すなわち大いなる迷信に取り憑かれているからであると思います。


3. 無の思想/無我とは何か

 『空』についての考察が終わりましたので、今度は『無』について考えてみましょう。この『無』も大いに混乱しています。『空』に対しても、『無』に対しても、色々な立場から自由に定義づけることができますので、私はそれぞれの思想や哲学を非難したり否定するものではありません。

 あくまで、釈迦が教えたかったであろうと推測される仏教的な『空』と『無』について、私が霊言集から学んだ知識を基にし、私の世界観と精神世界における総合的な整合性、すなわち理論的矛盾のない理解と解釈を加味して、深く考察した結果を皆様にお伝えしています。

 まずは、その混乱の程度について、ネットで調べた一部の資料を紹介し、解説します。


3-1 ネットで調べた『無の思想』  <Top Page>

① 無 - Wikipedia 抜粋1

 各分野における無について解説してありますので参照してみてください。仏教的な無についても解説がされています。しかし難しい漢字の説明に過ぎず、どんな理念・意図があるのか全く分かりません。

 その中に、物理学的な無について書いてありましたので紹介します。

物理学 [編集]

古典物理学において、物理的に何も無い空間を真空と呼び、真空は完全な無であると考えられてきたが、現代物理学においては、真空のゆらぎによって、何も無いはずの真空から電子と陽電子のペアが、突然出現することが認められている。このことによって、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在しないとされている。

◆ 抜粋1の解説

 この文章を読むと、《無、何もない無、真空、完全な無、絶対無》という言葉の使い方に、誰もが惑わされるのではないでしょうか。
 
 真空が、実は真空ではなかった、という内容なのですが、相変わらず真空という言葉を使い続けているので、このように非常に分かりにくい文章になってしまっているとのだと思います。おそらく現代物理学では、物質が何もない空間を真空と呼ぶ、と規定しているのだと思います。

 このように、真空と呼んでいる空間には物質は何もないが、実は何かがある、ということが分かっています。しかし、一般には、未だに真空は何もない空間として教えていますし、大部分のひとは、そのように知識として刷り込まれてしまっています。

 真空、実はこれが『空』であることを、ここまで読み進めてこられた読者は、たちどころに理解されると思います。真空中に存在する何かとは、エネルギーである事を読者は知っています。

 つまり、現代物理学は、空を既に理解しています。『宗教は科学である』と私が主張している所以です。

 更にネットで調べた無について引用します。真説『空の思想』を読んでそれを真とする方は、以下の文章を理解できなくて当然だと思います。

 (但し、以下の抜粋はHPから削除されたようで、現在は確認できません。しかし、似たような説明は他にも多く見られますので、あえてそのまま掲載します。)

  ネットからの抜粋2

 『無』といえばまず頭に浮かぶのが仏教です。釈迦の無は認識作用を無化することにありました。「唯識」の『空』論において『無』は思想化されました。この思想の特徴は実在するのは『識』だけであり、その他の存在は識の作用のようなものであり、実体がない(空)であるということです。いわば魂とは『識』であり、『識』以外に何ものも存在しないということでしょう。世界の変化は『識』状態の変化(転変)なのです。『識』とは『意識』や『心』と『身体』、世界現象のすべてなのです。ということで識の様々な変化構造を描き出すのがこの思想の特徴です。その煩雑なインド的カテゴリー的概念は現代的には無意味ですが、一つ重要な概念をあげるとすれば、自己感覚の存続に関わるのはアーラヤ識だということです。しかし、『識』が変化するものなら『永遠』とはいえないので『識』も自性を持たない(空)でしょう。つまり真の実在は『識』を属性とする『空』という『無』なのです。禅の無はその延長であり、宗教的体験を求める方法としての無であって、『無』自体については思想されたものではありません。仏教的『無』はきわめて非物質的であり非生命的であり、純粋精神的です。つまり現実否定的なのです。

◆ 抜粋2の解説

 認識作用を無化する、というのはこういう事だと思います。心をコントロールすることで、心の運動を停止(想念を停止)させ、自己の存在を感をじるだけになること、を意味するのであろうと私は推測します。『心頭滅却すれば火もまた涼し』という言葉がありますが、それにやや近いのだろうと思います。

 釈迦の無は認識作用を無化すること、とありますが、私は少し違うのではないかと思います。瞑想が深くなり定に入ると自然とそうなるだろうと思いますが、意識して心の作用を止め、無となるというのは単なる訓練であって、私は瞑想と本質的に異なるのではないかと思います。釈迦が訓練として行ったことはあったのかも知れませんが、それは本道ではないでしょう。

 瞑想とは本来、外界と心を遮断して、心静かに物事を考察し、洞察することであり、本質を見抜くための努力を言うものです。ここで、座禅を組んだり、目を瞑ったり、静かな部屋で座る、といった形式にこだわる必要はありません。外界と心を遮断するのは、どのような場所でも、環境でも可能なのです。ですから、散歩しながら瞑想することも可能です。

 心の作用を止める訓練をすることで大いに悟りが深まるのかというと、私は原理的にあり得ないと思います。宗教的体験、すなわち霊的体験をすることがあったとしても、修行の王道とは言えないと思います。高級霊・守護霊が語りかけるには、波長導通の原理から心の浄化が基本的に必要なことであり、それが無い場合、霊的現象は闇の世界からの作用ということになり、非常に危険であると言わざるを得ません。

 実体がない(空) 、とありますが、私の真説『空の思想』と正反対の意味です。私の説では、空とは、目に見えない実体そのものであり、本質であると説明しました。

 真の実在は『識』を属性とする『空』という『無』なのです 、とあります。思想として哲学としての無に対する解釈や説について否定も肯定もできませんが、何と空虚な解釈かと私は思います。

 それでは、釈迦が教えたと私が信ずる説を述べてみましょう。  


3-2 真説『無の思想1』心の在り方としての無-無我  <Top Page>

 最初に無を説明するための、予備知識を整理してみます。

① 宗教の目的

 ここで解説しようとしている『無』は当然の事ながら、宗教的な無であり、釈迦が教えたであろう無についてです。

 宗教における第一目標は、個人の幸福、心の平安を目指すことでしょう。心の平安は人生における全ての原点です。その上ではじめて心の成長・悟りを高めることができるのであり、家庭や身近な人々、社会や国家に対して、人類に対して積極的な貢献ができるのです。

 真なる心の平安、それが得られないとしたら、その宗教は本物では無いと言えます。

② 釈迦の八正道

 釈迦の教えの中核はやはり八正道ではないかと思います。八正道は、個人としての人間完成を目指すものです。初歩としては心の平安を得るための手段方法かもしれませんが、理解が深まると、心の成長と智恵の獲得へと発展させることができる奥深さがある、と私は理解しています。

 正見、正語、正思、正業、正命、正精進、正念、正定です。正見、正語は比較的に点検が易しいかも知れませんが、最も基本的で重要と思われるものは、正思でしょう。今日一日、正しく思ったか、正しい想念を持ちながら一日を過ごしたか、こういう風に自分に嘘をつけない第三者の目で、自己を振り返って反省する作業の事です。

③ 正しさとは何か

 八正道、すなわち八つの正しさを極める方法というわけですが、では正しさとは何か、これが最も重要なのです。善と善、正義と正義、愛と愛、自由と自由が常に相克している国際関係や社会現象、そして自己と他の関係の中で、正しさとは何かという結論はなかなか出てはこないのが現実です。

 正しさとは、神の目から観たときの正しさを言います。しかし、神にそれを直接問う事はできませんし、仮に神が目の前に居たとして、神に問うても何も返事をされないはずです。それは何故でしょうか。ここに魂の進化の秘密があります。

 神に近い存在、それは誰でも持っている自己の神性であり、これを真我または良心と言っています。本来、人間は神の子ですから、自己の中に神が宿っています。心の向上を願い、自ら努力する人にとって、八正道を実践する時、あるいは日々の生活の中で、正しさの基準を自己の良心・真我に問う事が大切です。

 その努力の中で、智恵を獲得し、認識力を高め、広い世界観を獲得し、より困難な問題を解決する能力が育まれていきます。これを魂の進化とも言いますし、また悟りの階梯を昇るとも言います。

④ 魂の開放

 ここからが本題です。反省をするとき、すなわち正しさや中道を求めるとき、あるいは良心に問うとき、何が最も大切でしょうか。

 心の平安と幸福の追求、あるいは自己の成長を追求するならば、周囲との調和が原点です。周囲との調和無くして、心の平安もなく、幸福も無く、成長もあり得ないでしょう。人間の悩みの原点は自己と他の関係の中にあることが分かります。

 偏らない第三者(良心)の目で、自己と他の関係を深く考え、中道という考え方を尺度として両者の調和について考えたり、問題解決の糸口を探したり、互いの更なる成長を考えたり、様々な角度から検討します。この時、偏らない第三者の目に、自分が成り切れるか、ここが最も大切になります。

 自己と他の関係というと、利害関係が絡んでくることが多いわけであり、自己防衛本能が無意識の内に働き始めます。最も敏感に働くのは、肉体に関する欲望であり、続いて金銭欲、自己顕示欲、名誉欲、支配欲、様々なものがあります。経済的に普通の人ならば、自己防衛・自己顕示欲が中心になるのではないかと思います。

 ですから、偏らない第三者(良心)の目に自分が成り切るためには、肉体的な欲望や精神的な欲望から、一旦、自己を開放する必要があります。自分で自分を開放するのです。すなわち魂の開放です。幼子のように素直で謙虚な自己を取り戻す事です。

⑤ 無とは何か

 宗教的な無とは、この魂の開放を意味します。

 鷲やトンビが、大空高く、雄大に飛んでいる様子を見たことがあると思います。しかし、ウサギのような大きな獲物を捕獲したとすると、もはや大空高く、自由に飛び回ることができません。もたもたしていると、今度は自分の命が他の大型の動物に狙われることになります。

 また南のある国では、猿を捕獲するための簡単な仕掛けがあると聞きます。それは、壺の中に猿の好物である餌を入れておくのだそうです。猿は、壺をのぞき込み、餌を取り出そうとしますが、餌を握ると拳が大きくなり、壺から出すことができません。必死に拳を壺から抜こうとしますが、何故抜けないのか分からず、結局人間に捕まってしまう、そういうお話しです。

 自我、我欲に捕らわれている、すなわち心が様々の事柄をつかんで離さないでいると、鷲やトンビのように自在に飛び回り、また猿のように敏捷に走り回れない、そういう心の状態に成っていきます。何故かいつも心がザワザワしてシーンとしていない、また追い詰められたように切迫感を感じて重い、その理由が分からないで苦しんでいる、いや苦しいことにすら気がついていない、それが多くの人間の姿です。

 しかし、魂を開放する、心を解放するというのは、物を棄て、地位を棄て、お金を棄て、山に籠もれば可能になるということではありません。社会と隔絶して、仙人のように一人で生活しても、それは真の開放ではありません。単に環境を変えることで忘れようとしているだけです。

 様々な物やお金、権力や友人を沢山持っていても、それに捕らわれない、自由な心を獲得することが真の魂の開放だと私は思います。では、どうすればできるか、ですね。本題から外れますので、私の思うところを簡単に言いましょう。

⑥ 無の獲得

 止観、反省、禊ぎ、懺悔と、いろいろな方法論が説かれていると思いますが、これらはいずれも謙虚になって自己を振り返り、神の偉大さの前に自己の小ささを知るという一面を持った作業であり、少なくともその時は、ある程度の範囲で魂を開放し、無を体験できるでしょう。

 その経験を重ねることで魂の開放を持続できますが、その作業をやめれば、また元に戻ってしまう事になりがちです。ではどうすれば良いのか。私は、心の次元を少しだけ上昇させることが大切だと思います。

 そのためには、全体の悟りに関する様々な知識を獲得し、神の心の一端を理解しようとする努力が早道だと思います。全体の悟りとは、霊・霊的世界・神・進化と創造・高次元宇宙・・・その他についての整合性がある知識の集積です。

 様々なものを沢山持っていても、心でつかまないことです。心の重荷とならない、執着を持たない、全ては預かり物であるという自然な心、これが宗教的な真の無であり、釈迦の教える無である、私はそのように理解しています。後述しますが、無は心の成長を願う者にとって、大切な出発点です。

 無に対する理解が進むと無我も容易に理解できます。続いて『無我と諸法無我における我とは何か』と題して、考察を進めていきます。

⑦ 無我と諸法無我における我とは何か

 『諸法無我』という言葉があります。諸法とは諸行無常の諸行と同じで、この世に存在しているあらゆるもの、という意味です。これをネットで調べると、

諸法無我

『仏 三法印の一。あらゆる事物には、永遠・不変な本性である我(が)がないということ。』

 と書いてあります。こういう説明が通説となっているようですが、私の説は全く正反対に近いものです。読者は私の唱える真説『空の思想』、真説『無の思想1』を読んでこられましたので、この『無我』と『諸法無我』の本来の意味をおおよそ類推ができるのではないかと思います。

 諸行無常すなわち森羅万象あらゆるものが流転していく中に、変化しない本質が目に見えないエネルギーとして存在している、そのエネルギーまたはそのエネルギーの存在する次元空間のことを空と呼ぶ、と説明してきました。宗教的な意味の無とは、無執着すなわち、物事にとらわれのない心の状態、言い換えれば心を解放し、魂を開放するという意味である、と説明しました。

 そして我とは、物事にとらわれたり、迷いの中にある人間の心の状態、すなわち我欲の心を指して言っているのです。これを別の言葉で偽我と呼んでいます。そして、偽我に対して真我という言葉があります。

 『真我と偽我』の項目を参照して下さい。

 無我とは、無執着でとらわれのない心の状態、つまり偽我を克服し、真我の状態になることを言うのです。人間は高度な心、言い換えれば創造力であり、それを生み出す高度な自由意志を持っているために、輪廻転生の成長の中で様々な迷いの心、偽我を持つこともあるのです。

 従って諸法無我とは、この世に存在する人間以外のあらゆるものには偽我が無い、すなわち我欲とか迷いが無いという意味です。無我と諸法無我を理解した上で、更に説明すると次のようになります。

 諸法は無我である、すなわち動物も植物も、鉱物も空気や水も流れゆく雲も、とらわれのないありのままの心(仏性・神性)で流転していく。しかし、人間だけは我欲にとらわれ迷いの中にある、その迷いや我欲にとらわれた執着の心は、神の子としての人間本来の心の状態ではない、その迷いと執着のない心となれ、無我となれ、すなわち本来のありのままの心となって生きよ。と、釈迦は教えたのであろうと、私は思います。

 ですから、前述のネットで調べた記述において、『仏 三法印の一。あらゆる事物には、永遠・不変な本性である我(が)がないということ。』 これを正しく書き直すと、

 正法無我-『あらゆる事物には永遠・不変な本性である我、すなわち神性・仏性・真我があるが、人間のような迷いの心、すなわち偽我はないということ。』

 これが、我、無我、諸法無我の本来の意味です。続いて《無我の境地》について考えてみましょう。

⑧ 無我の境地とは何か

 『無我の境地』という言葉を聞いたことがあると思います。今まで宗教的見地から、無、無我、諸法無我、という具合に説明をしてきました。これは、心の修行を志す人間にとって、無に対する理解と意識は大切な原点・基本だということです。(無の境地といっても、無限の透明度と深さがあります。)

 しかし、無我の境地という場合は、宗教的なものだけに限定する必要は全くありません。とらわれの無い、無欲の心の状態になる瞬間は、誰でもあり得ることです。ただし、自分の《意志の力》でいつでもそうできるようになるためには、余程の修練と心の修行がいるでしょう。

 よく剣客の話として無我の境地という言葉が使われてきました。しかし、剣の道は、現在では野球であったり、柔道であったり、卓球であったり、様々なスポーツについて言えるでしょう。また、スポーツだけでなく、職人の世界や、音楽・芸術の世界、科学技術の世界でも言えるはずです。

 無我の境地は、自分の力を出し切り、更に守護霊・指導霊の指導を無意識の内に受けとめられる、そういう透明感のある心境だからです。自分の力を出し切るというのは自力であり100%を意味しますが、守護霊・指導霊の力が作用するとき、自力+他力=100%以上の力を発揮することとなり、自分でも信じられない力を出せるときがあります。こういうとき、神業と言う言葉を使用するのです。

 以上が、宗教的な無の思想であり、真説『無の思想1』の説明です。化石化した仏教哲学の考え方と全く正反対に近い説である事がお分かりになったと思います。

 続いて、宗教的な無ではない無、つまり『時間と存在』、『意識と存在』の関係を、確認の意味で説明したいと思います。思想的あるいは哲学的な無と言えます。釈迦の本来の教えを忘れ、化石化した仏教哲学の核心であり、頭脳的な論理展開と言えます。

 しかし、難しく考えることはありません。何故なら誰でも分かる簡単な事だからです。


3-3 真説『無の思想2』-時間/意識/存在-そして無 <Top Page>

 原始仏教や仏教哲学について、私は聞きかじり以上の知識はありません。釈迦は宗教的な無を主として語ったはずであると私は思いますが、同時に哲学的な無についても語ったのかもしれません。それらが混乱したまま古代インドから中国へ受け継がれ、そして日本に伝わって来る過程で、人間の知と意によって更に哲学化され、仏教をより難しくしてしまっているのではないかと思います。

① 無という概念の誕生

 無というのは、何かが無い、存在しないというのが本来の意味です。ですから、《無の思想》と言ったとき、【何が存在しない場合、それがとのような作用となって現象化し、人間にとってどのような意味を持つのか】という展開がなければならないと思います。更に、それが人間の生き方・悟りにおいて大いなる指針となるものもって、本来の思想と言えるのではないかと私は思います。

 そういう視点から考察すると、以下に論じる思想は、人間の生き方・悟りにおいて、それほど意味があるとは思えません。極論すれば、【認識できないものは存在しない、従って無である】という論理です。

 単に、無という概念はどのようにして生じるかという論理を語っているのです。存在、時間、意識の関係論として哲学的な表現を用いるとき、大変難しい理論展開になっていきますが、論理の為の論理になってしまっている、私にはそう思えるのです。


② 物に時間が無い場合

 仮に、意識(人間の心・魂)が存在し、物が存在するとします。更に、物に時間が存在せず、意識に時間が存在するとします。時間という概念は何かというと、変化できる・していくという特性がある事を意味します。

 そうすると、物という存在を認識しようとする意識はあるのですが、物は永遠に変化しませんから、これを意識の方から観るとどういうことになるか、こういう問題です。どういうことかと言いますと、意識が物に対して作用することもできない、また物も意識に対して作用が無い状態になります。
 
 具体的に言うと、光を当てても反射しませんから、見えません。では触ることができるかというと、触っても反力を生じませんので、触ったという事が分かりません。つまり、意識の側から言うと、物があるという認識ができなくなってしまうのです。空気か幽霊か、そういうものになってしまいます。

 私達が見えないあの世という世界を別の方法で認識していても、触ることも見ることもできない、それと全く同じです。従って、あの世は存在しない、という論理となり、その結果として多くの人が、あの世の存在を信じていないのです。

 すなわち、意識にとって、物の存在を認識できない時、無であるという結論に達します。物に時間が無いと、意識が存在していても、一切の物が存在しないという認識に至るのです。無という概念の誕生プロセスと言えます。

③ 意識に時間が無い場合

 では、物には時間が存在するが、意識には時間が存在しないとすればどうなるか。

 意識が全く変化しないという事であれば、それは意識ではなくなります。とすれば、物が変化していっても、それを認識する意識が存在しないのですから、物も存在しないことと全く同じ事になります。

 全てが、存在しない世界、すなわち、無です。てすから、時間というものと、意識の存在があって初めて物という存在が生まれている事が分かります。

 三次元の世界においては、私達は共通の時間軸を持っています。あの世・実在界・霊的世界においては、それぞれの時間軸が皆異なりますが、時間は存在します。

 時間の無い世界、それは『完全な無の世界』と言えるわけです。これが、哲学的な無です。しかし、幾ら難しい言葉を使用して論理展開したところで、序文で言いましたように、それこそ全くの無であり、不毛な議論となることを読者は充分に理解したと思います。

④ 変化とは時間を内包したエネルギーである

 時間と共に何かが変化する、これはエネルギーの本質です。この世も、あの世も、エネルギーの世界ですから、完全な無というのは、神の創られた世界、この多次元かつ高次元の大宇宙の中には、どこにも存在しない事になります。

 従って、私達が完全な無について論じることは、頭の訓練にはなっても、何も創造することは出来ません。大宇宙を創造した神にとっては、あるいは何らかの意味を持つ可能性は残されているのではないかと思いますが、私達人間にとっては、不毛の議論であると言わざるを得ないのです。

 ですから、哲学的な存在論を宗教的な存在論へと転化させるべきであり、そうすることで初めて存在論が大きな意味を持つと思います。

⑤ 一瞬にして消える世界、宇宙という実在/宗教的な存在論

 神は時間というものを創られたはずです。ということは、時間を止める・無くす事も可能だと思います。私達が知り得る、三次元宇宙を包含するように存在している多次元かつ高次元の実在界宇宙における時間を停止したとき、一瞬にして全てが無と化します。例えば、合わせ鏡に映った無限に続く私達の姿も、鏡をぱたっと閉じたとき、その無限の姿が一瞬のうちに消滅するような、そういう事になるのかも知れません。

 また、例えば神の映写機があり、幾つものスクリーンに映された世界、それが三次元物質世界、四次元世界、五次元世界、六次元世界・・・・であるとします。そのスクリーンに映された人間が私達であり、天使達、地獄霊であったりします。しかし、その映写機を止めれば、一瞬のうちに全てが消えて無くなります。

 つまり、私達が確固たる存在であると信じているものも、神の目から観たとき、映写機の映像、また合わせ鏡に映った姿のようなものであるのです。すなわち、私達は神の意志によって生かされている存在である、そういう認識に至ります。哲学的意味の無について学び、存在という事を考えるならば、単に哲学的論理で終わるのではなく、人間は神により生かされている存在であるという認識を深めたいものです。

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4.心の向上を志す者にとって、「空と無の思想」とは何か

 では、空と無の思想を理解することが、どの程度の悟りと言えるでしょうか。真説『空の思想、無の思想』を読まれた方はお分かりでしょう。簡単に言えば、

 空とは『変化し続けていく中に変化しない実体がある。肉体が滅びても、人間の本質である霊(心)は永遠に生き続ける。物質や宇宙の姿も同様である。』ということでした。

 無とは『人間を取り巻く森羅万象すべての物には、よこしまな心や我欲というものは無い。人間もまた我欲を棄て調和の心で生きることを目指しなさい。そうすれば、一切の苦悩から逃れることができ、幸福な人生を送れるのだ。心の修行を志す者にとって、第一に学ばなくてはならない原点である。』

 と、釈迦は教えたであろうと、私は思うのです。

 本テーマの『はじめに-②』において、『空と無は縦糸と横糸の関係』にあると説明しました。空とは、見えない実体・本質であり、観ようとするあるいは知ろうとする目標であり世界を指します。無とは、本質を正しく観るための心の状態を教えています。

 ですから、空と無は、心の向上を願い常に努力する者にとって、修行の入り口に過ぎないのです。空と無を理解したなら、毎日の生活の中で、無を実践し空を深く探究する、すなわち、我を棄て迷いのない無色透明の心となって、物事の本質を洞察しようとする積極的な姿勢が大切なのです。

 洞察がすすめば、物事を解決し、調和を図り、更に発展するための実践に繋がっていきます。その過程では、守護霊・指導霊からの多くのインスピレーションがあるでしょう。そして、自らの実践と体験から学び、智者と歴史から学び、更に独自に洞察する、その繰り返しという連鎖を通じて、魂の成長があると私は考えています。

 私は書くことで、自分の考えがより透明になり、更に深まっていくという実感を持っています。読者に読んでいただくという事で、私は非常に真剣な気持ちになれます。いささかでも疑問や曖昧さを感じたときは、結論が出るまで考え、そして書き上げています。

 姉妹HP「日々神理の探究」、このブログを書くことで、私は無の心となる環境を自ら整え、空の世界をより深く探究したい、そう願っています。洞察の大切さ、これは仏教の核心だと私は思います。


終わりに

 『空と無の思想』は、現代人にとって既に当たり前のことですが、それに気づいていないのだと思います。しかし、精神科学を探究したいと願う者は、空と無を積極的に意識することが大切な出発点だと思います。

 そして、次に大事なことは、『宗教は科学である』という事実、すなわち宗教とは実在界・神の世界を科学的に探究することである、ということを深く認識することだと私は考えています。そして、《個の悟り》と《全体の悟り》を交互に学びつつ、螺旋階段を昇るように自己の成長を目指すべきだと思います。

注釈

《個の悟り》---心の探究すなわち心の原理を知り心の偉大さを知る、更に反省などを通じて自己を積極的に改造することで調和と平安を獲得し、究極として人間完成を目指していくプロセスを指す。

《全体の悟り》---神の世界、すなわち霊・天国と地獄・多次元かつ高次元宇宙に関する科学的な知識の獲得を通じて、神の心・神の考え方をより深く理解していくプロセスを指す。


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