Home   論文目次 七つの封印 The Seven Seals



◆◆◆ 宗教は科学である ◆◆◆

2007.08.01 窪田光治

1.はじめに
2.神理の探究とは何か 3.宗教と科学 
4.迷信と信仰 5.科学とは宗教の解明 6.神理を自分の言葉で語る

 

1.はじめに

 「宗教は科学である」と言うと、???という方が多いと思います。何故なら一般的に、この二つは正反対の事柄として認識されているからです。しかし、それは古典的な宗教に当てはまるかも知れませんが、今現在説かれている様々な霊界通信、霊言書、精神世界に関する書物などから浮かび上がるこれからの宗教像は、今までの人々の概念を大きく変えるものです。霊的世界と神が《実在》するならば、それは当然のことです。人類の存亡をかけた危機の時代を迎え、神が人々の心に蘇るとき、化石化した宗教もまた蘇るときであり、科学の探究とは真実の探求であり、精神世界の探究もまた真実の探求である以上、科学は宗教の一部である事を認識する時代が来ていると言えます。
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 宗教は「心の科学、心の法則」という言い方も、もちろん出来ます。そして、結局は「心」が全てであり、仮にこの宇宙から「心」を取り除いた時、全ての存在は無である、という結論に達します。従って、「宗教は心の科学」という呼び方が究極的な姿であることは間違いありません。しかし、その結論に至る前に、まず「宗教は科学である」という話をしようと思います。


2.真理の探究とは何か


 様々な人に接してみて感じる事ですが、霊と神の話をするとき、聞く人の態度は大きく三通りあると思います。第一は、頭から拒絶反応を示す人が少なからずいます。こういう方には残念ながら、言葉とか理屈は全く通じません。輪廻転生の歴史が異なるのか、あるいは育った環境に深く影響されたため潜在意識と導通しにくくなっているか、あるいは何かの事件で自己暗示に掛かり真我を封印しているか、いろいろなケースがあるかと思います。

 第二は、話の一部だけを聞いて、証拠があるかどうかをまず問題にし、それが無いと次に行けない方です。学問をし知識を多く蓄え、それをもって文明人・科学的な人間と自負している方は、なかなか霊というものを素直に受け入れないばかりか、証明・証拠を最初から求めたがります。また、宗教を学んでいる方でも、このサイトに違和感を持たれる方は多いと思います。なぜなら、従来の伝統的な宗教とは大きく異なるからです。個別のテーマについて、すぐに証拠を求められると、当然のことですがそこで話が終わってしまい、先には進めません。

 しかし、学問をし真理を探究する事は、本来、神へ通じる大きな道であるはずなのです。深く真理を探究した科学者、哲学者、芸術家、あるいはどんな分野・職業でも良いのですが、謙虚な姿勢で真理を深く究めれば究めるほど、その方は霊的存在に理解を示し、神の存在を否定できなくなります。何故かというと、この世を支配している真理・法則に触れる(頭脳的な理解ではなく)ということは、神に触れることに等しいからです。実際に、アインシュタイン、湯川秀樹をはじめそういう方々は結構多いと認識しています。彼らは、真理に触れて、その奥にある神秘を感じ取る豊かな感性を持っており、その感性は子供のような謙虚さによって育まれると私は思います。 

 第三は、潜在意識下に大部分が眠ってはいても、心の奥底からの知りたいという声に正直な人は、まず霊的な話を素直に聞こうとします。そして、それらの知識を吟味し体系化し咀嚼して行く、また更に新しい知識を蓄積して行くに従い、次第に広大な視野が開けていく事を実感することが出来ます。なぜなら、過去の霊界通信を含め、精神世界に関する沢山の書籍が既に出版されているからです。人生についての疑問が解け、あの世の存在を確信し、この世で生きる目的を知る、これこそ真理の探究そのものであると私は思います。

 学問をし真理の探究を深めることは、人間関係を含むこの三次元世界を支配するあらゆる法則に触れることであり、それはすなわち間接的に神に触れことです。それは、やがて四次元以降の世界を理解する切っ掛けとなるでしょう。また精神世界を直接探究し、人間の本質を知り、多次元・高次元宇宙の構造を知り、人類の歴史を知り、神の偉大さを知る、そして自己という存在に真に気づく、その上で更に自己を深く掘り下げていく、どの段階であろうとその意義は非常に大きいと思います。このプロセスを証明することは出来ないかも知れませんが、真理の探究そのものであることに間違いありません。
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3.宗教と科学


 私がこのサイトで語っている神理の体系全体を強く信じるのは、正に科学的合理性があり、全てが調和して矛盾がない、そしてそれまでの人生における疑問の多くが次々と解消されたためです。私の精神世界に関する知識は色々な所からの寄せ集めに見えるかも知れません。しかし、それらの寄せ集めに見える知識が互いに矛盾しない、あるいは一見して矛盾するように見えても、より高次の思想・原理によって包含されるならば良しとして受け入れるべきであると思います。そうすることで、日々、学びの内容は深まり、成長していくことが出来ます。

 ですから、知識は精神世界の重要な要素ではありますが、神理知識の一部を取り出して、正しいとか正しくないとか、そのような議論をすることに私は大きな意義を求めているのではなく、神理知識を包含している神の法則・体系があり、それに照らし合わせたとき、合理的な説明が出来るかどうかが大切であると考えています。すなわち、三次元世界(この世)を包含する四次元以降の高次元の世界(あの世)という広大無辺の時空間を貫いている原理・法則を神の法則・体系と呼び、これを日々探究することに私は大きな意義を見出しているのです。

 本来、宗教とは科学である、私はそう考えています。しかし、それは考えてみれば当然すぎることなのです。もともと宗教とは、人間は何のために生きているのか、生かされているのか、それが知りたい、そういう誰もが持っている渇望から、心・魂・霊・神の探究が始まったと思います。そして、それを宗教として私達は認識してきたのです。すなわち、本来、宗教には真理の探究という大命題があり、そしてそれは、人類の誕生と歴史、ミクロの世界と大宇宙、物質とエネルギーの世界、また時間と空間へと向かうベクトルを必然的に内包しているのです。なぜなら、全ての生命、宇宙の一切を神は造られたからです。

 釈迦やモーゼ、イエスキリストも、人間の本質について、あるいは宇宙の誕生について語りたかったでしょう。しかし、当時の人々はまだそれを受け入れられる段階にありませんでした。ですから、今までの宗教は神理の体系とか合理性という面から見ると不十分かも知れません。そして、文明が発達し科学が発達した今(魂の進化を直接意味しない)、従来の宗教は既に時代と調和できなくなりつつあるという認識が必要です。宗教間の摩擦が絶えないのはその証拠の一つでしょう。もちろん、従来の宗教を否定するものではありません。それらを包含し、調和させていく、そして合理性を兼ね備えていく、地球が新しい文明を誕生させるには、そういう方向性が求められているということです。

 そのために、新しい様々な精神世界の運動があり、霊界通信・預言書が次々と、現代の地上に降ろされているのです。

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4.迷信と信仰

 文明人を自称する唯物論者は、霊的世界を信じる方達を文明的に遅れた人間として見ており、宗教を単なる迷信として考えているのでしょう。しかし、霊的世界が確実に存在し、人間の本質は霊であることを確信している私達から彼らを見ると、逆に彼らはとんでもない「迷信」に捕らわれ、盲目で魂の自由を失った人間に見えます。

 皆さんは、学生時代、あるいは今でもそうだと思いますが、見てきた人の事なら信じるが、見たことがない人、そこへ行ったことがない人の話を信じない、そうでしょうか。そうではありません。私達は、膨大な知識を持っていますが、それらは本で学び、先生から学び、友人から学んできたものです。英語の先生は、大抵の場合ネイティブではありませんし、英語圏で生活したことがあるわけでもありません。でも、英語を教えることが出来ます。

 では、そういう知識を何故受け入れているのか。私達の生活圏の中では一応合理的に説明することができ、また矛盾もない、そのために余り疑問を持たずに受け入れて、その存在を信じているのではないでしょうか。その中には、見えないもの、手にとって触ることができないものが沢山あると思います。例えば、電波や磁力線など見た人がいるでしょうか。空気も見えません。原子・分子・微生物というミクロの世界、そして宇宙という広大なマクロの世界においても、誰も手を触れることが出来ないし、肉眼でも確認できません。また愛とか勇気とか、そういうエネルギーも見えません。でも、その存在を疑う人は一人も居ないのです。すなわち、私達は既に、自分では、見えないもの、触れられないもの、確認できない沢山の存在を信じることによって、私達の生活が成り立っているのです。これもまた、信仰形態の一つと言えると思います。

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5.科学とは宗教の解明

 しかし、今から数百年前に遡るとどうでしょうか。私達がその存在を信じて疑わない様々な知識を、ごく最近になって人類は受け入れることができたという事実に気がつきます。すなわち、科学はまだまだ初期の発展段階にあり、文明もこれから更に進化していく、そういう過程にあるのだという認識に立ったとき、霊的世界の存在証明が無いから、存在しないのだという考え方は、全く科学的な思考では無いことが分かります。むしろ、《状況証拠は溢れるほど存在している》ことに注目すべきなのです。

 真の宗教とは、生命の探究であり、宇宙の探究であり、天地創造の探究であり、空間と時間の探究であり、心の探究であり、エネルギーの探究である、さらに芸術の探究でもあるのです。私達が現在、科学と呼んでいるものは、宗教(= 実在する真実の探究)のごく一部でしかありません。

 すなわち、「3.宗教と科学」で述べたように、宗教が本来持っている領域(= 実在する真実)の中で、証明されたり多くの人々が認知した結果を、科学と呼んでいるだけであり、科学の進歩とは、宗教の領域を次第に解明していくステップであるのです。

 この地球の神、また大指導霊、天使と呼ばれる方々から、この地上に降ろされた数々の霊界通信には、宇宙の秘密、生命の秘密に関することが数多く含まれており、たとえ証明は出来なくとも、真実は真実として存在している限り、そこには整然とした法則・原理が存在するはずです。数々の霊界通信、すなわち預言書から宇宙と生命を探究する事、すなわちそれは宗教でありますが、同時に科学でもあるのです。そして、その中を脈々と流れる原理・法則とは神の心そのものであり、これを神理と呼んでいます。

 現代の科学ではまだ証明されてはいないが、厳然として多くの真実は存在するのです。すなわち、三次元世界を包含する高次元(多次元)の世界という広大無辺の時空を貫いている原理・法則を神の法則・体系または神理と呼んではいますが、実はそれはまだ発見されていない未来の科学的事実であり、やがてその一部は次第に解明されていくはずであると申し上げているのです。

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6.神理を自分の言葉で語る

 神理とは神の心、すなわち神の法則であり、数学や物理学で言う原理・法則と同じです。また数学で言う公理や定理に相当します。もちろん神理に関する知識というものは膨大無辺ですが、神の法則を理解しないで神理知識をただ詰め込んだだけでは、応用問題はなかなか解けません。それは公理・定理・公式というものに対する理解がないと、数学の問題が解けないのに似ています。

 従って、神理知識ではない神理(神の法則・神の心・神の考え方)について理解が深まるに従い、数学の問題を解いたときのように、様々なことを自分の言葉で語ることができます。素粒子が集まって原子が存在し、更に原子が集まって分子が存在する、その結果、物質としての実態がある事を、今や小学生でも知っています。また、素粒子は質量のないエネルギーに変換できる事も今や常識です。それらを肉眼で見た人は誰一人居りませんが、彼らに尋ねれば、同じように答えるでしょう。それは、物体・物質を構成する《普遍的な原理》として理解しているからです。

 それと同じであり、霊的世界を見たことがあるかどうか、神様と話をしたことがあるかどうかは、それほど重要な事ではありません。見えるかどうか、話が出来るかどうかにとらわれていると、真の神の心・法則を学ぶことが逆に出来なくなります。大事なことは、高級霊の属性と言いますか、神の心とは何かについて知ることであり、単なる知識を蓄えるだけでなく、色々な知識をもとに、それらが昇華するまで考え洞察することです。

 神の心を知る努力は、同時に本物と偽物を見分ける智慧と感性を育てます。霊の世界が見えたり、聞こえる方が多くいることは承知しています。しかし、神の世界と通じている方は極めて少なく、どの次元に通じているか怪しい方々の方が圧倒的に多いため、安易に信じるのは極めて危険なのです。人々が心の羅針盤を失った末法の世は、法が説かれるときであり、それ故、魔が跳梁跋扈する時代でもあります。(「悪霊を見破る方法」を参照。)

 神の心と法則は理性と愛と謙虚さで学ぶことが出来ると私は思います。神の全てを理解することはもちろん出来ませんが、子供として親の考え方・心のごく一部を理解することは可能であり、そうすることで親の考えに沿う生き方が可能になります。すなわち、神の子としての自覚があり、神の心を理解しようと努め、神理知識を学び、尚かつ、愛と謙虚さを失わなければ、正しい神理を自分の言葉で語ることが出来るようになる、私はそのように考えています。そして、これからの時代は宗教を科学として学ぶ姿勢が非常に大事なのです。



宗教は科学である。

それ故、その法則を神理と呼んでいます。

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