ヨハネの黙示録・全ての謎が分かる

The Seven Seals

◆◆◆ 現世における理想世界とは何か ◆◆◆
2007.12.24 窪田光治◆◆◆

1.はじめに

2.完全とは何か

① 心を固定したとき、完全な美とは何か
② 美を固定したとき、完全な心とは何か
③ 完全とは何か

3.理想とは何か

① 誰でも知っている理想という方向
② 二元論の分岐点は
③ 生きる指針としての理想
④ 現在は理想世界という一断面

4.平和とは何か

① 悲劇の中から生まれるもの
② 絶対的な平和は本当に平和と言えるか
③ 高度に感じることができる心
④ 心の動的な作用の中に生命を得る

5.調和とは何か

① 三次元世界の特徴
② 死の無い世界とは
③ 一切が変化しない世界とは
④ 動的な調和とは
⑤ 創造と破壊
⑥ 真の発展と調和とは何か

6.三次元地上世界における理想国家とは何か

7.善悪二元論と光一元論の思想

① 光一元思想は時空を貫く軸、善悪二元の思想は時空の断面
② 理想世界はいつの時代にも常に存在していた

.おわりに

1.はじめに

 理想国家または理想世界といわれるものは、遠い未来にあると考えている方が多いのではないかと思うが、筆者はすぐそこにあると実は考えている。

 全能の神は、本来この三次元世界を「完全な、理想的な、平和な、調和の世界」として創造されているのである。  





(のんびりと-熊野灘/七里御浜にて)

 そしてそれを認識する人間が多くなればなるほど、理想国家が次第にこの三次元世界に顕現すると考えるのである。この仮説を証明する一助として、「完全・理想・平和・調和」この四つの言葉の持つ意味を洞察し、三次元世界における「理想国家とは何か」というテーマに迫る。またこれに関連して光一元論と二元論の論争にメスを入れてみる。

 「完全・理想・平和・調和」という言葉を使用して神の存在を論じる場合、言葉の持つ本来の意味・言葉の心というものを深く洞察する事が是非とも必要である。なぜなら、これらの言葉は、「人間の心」と「三次元世界の法則」に深く関わり、神の存在を間接的に認識するきっかけとなる大事なものであるからだ。

 「完全」という言葉は日常的に使われている言葉である。「仕事を完全に仕上げる」という場合、いくつかある「条件のすべてを満たす」という意味であろうと思う。しかし、「完全な世界」というような使い方をする場合、深く理解しないで使用している場合が多い。これらの言葉を表面的に捉えていると、現実の世界の仕組みもまた表面的に捉えてしまうことで終わる。

 そして無神論者は神の存在について、否定的な見解と結論に到達してしまいがちなのである。また、神理を学んだ方でも、理想世界というものを永遠の彼方の目標として認識することで終わってしまうのである。

 この一連の言葉の意味を深く洞察すればするほど、また人間の心や自然界を深く観察すればするほど、神の存在を否定できなくなっていくだけでなく、神の偉大さというものを実感するよすがとなり、さらに三次元世界における理想世界とは、「実はすぐにそこにある」という認識に到達するのである。

2.完全とは何か
                
① 心を固定したとき、完全な美とは何か

 完全とは、「すべての条件を満すこと」と定義し、「完全な美」というものをまず考えてみることにする。美しさとは何であろうか。美とは人の心が感じるものであり、人の心の中に本来備わっている何かが美なる信号と共鳴し、その共鳴する弦が奏でる一種の音色が美であるとして認識される。

 美だけでなく、あらゆる感覚(センサー)から受ける「思い」というものは、それぞれに共鳴する媒体があらかじめ心の中に存在しているからこそ、共鳴し思いが発生する。そして、その美的感覚というものは、人によって相当に違うという事実がある。

 ピカソに感動する人もあれば、妙な絵だと思う方もおられる。チューリップの花よりも可憐な野菊に美を見いだす方もおられる。このことから、一枚の絵が、一輪の花が、万人に共通の美的感覚を与えることは不可能であることがわかる。従って、一枚の絵、一輪の花には完全と言う言葉はあてはまらない。

 感じる心というものを固定して考えてみると、万人にとっての「完全な花」とはどういうことになるか。どの花にも全く美を感じない人はいない、と言っても異議を申し立てる人はいないであろう。しかし、一輪の花はある人にとって美であっても、ある人にとってはそうではないこともある。

 従って、「完全な花」とは無限の多様性と無限の段階をもつ花としての集合体か、縦横無尽に相手に応じて変化しうる花である必要があることになる。すなわち「花という集合体」によって万人に美を感じさせることができる。花は集合体として完全なものとして本来造られている事がわかる。

 この三次元の世界には無数の生物・鉱物が存在し、宇宙という巨大な存在からミクロの世界までを展望すると、自然というものの表現力は無限の多様性(水平)と段階(次元)を持つことに気づかざるをえない。

 花において「集合体として完全である」という考え方を発展させると、通常の人間がなかなか美とは思われないものまでを包含してこそ、はじめて「真に完全である」ということができるのではないかという結論に達する。

 すなわち、「醜さ」もまた美の一つの表現であって、これを包含してはじめて完全という事ができるのである。醜いものが存在することことを不完全な世としての要素と見るのではなく、醜いものも完全さを構成する一要素であると考えるのである。

② 美を固定したとき、完全な心とは何か
    
 感じる心というものを固定し、美を供給する立場から考察したが、では逆に美の供給側を固定し、「感じる人間の心」というものから同じ問題を考えてみよう。

 人の心は無限に多様であり、無限の段階がある、いや無限に多様であり、無限な段階をとり得る、またその素質があるという仮説がある。人の心はある特定の段階にとどまり、常に一定の方向にだけ向いているわけではないことは、自分の心の動きを観察してみれば誰もが納得できることである。

 一人の人間であっても、多様でかつ多くの段階(その時の気分・体調・年齢などにより)を取り得ることが、経験的にも十分に認識される。ある時はチューリップに美を感じ、ある時は野菊に美を感じ、ある時は路傍の石にさえ美を感じることができる、という体験はおそらくだれにでもある。魂が解放されているときは、はらはらと落ちる木の葉に、またきらきらと輝く木漏れ日に感動することができる。緊張しているときは針の落ちる音にさえ「びくっ」とするのものだ。

 現時点では、人の心の多様さと段階はある程度の範囲にとどまるかもしれないが、時が移り、時代が変わり、環境が変化すると、またその範囲もさらなる広がりを持つ。「茶のわび・さび」の世界観が大宇宙に通じ、またミクロの世界の美の表現であってもなんら差し支えはない。美を感じれば、醜をも感じ、善を思うことも悪を思うことも、念い・感じるということに関しては縦横無尽の能力を持っている。

 ただし、その人が思わない・考えないという自由度もあり、その認識力によっては「心の運動する範囲」が自ずから限定されてくるという事実がある。それは本来、備わっている自分の素質や能力を自らの自由によって使用していないということである。しかし、念う事さえすれば、宇宙のはてに心を寄せることもできるのであり、その素質と能力においては無限である。そして、行使することができるかどうか、するかしないかによってその人の心の世界は有限となるのである。

 このように人の心は無限の多様性と段階を持つ。少なくともその可能性と素質を持っているのであれば、冒頭の定義から、「本来、素質として人間は完全なものとして造られている」という結論に達する。

 また自らの意志に従って「より完全なもの」に近づいていく能力を持つということは、そのような完全さも持っているともいえる。前者を「静的完全さ」と定義すれば、後者は「動的完全さ」と定義でき、人間の心は静的にも動的にもその素質において完全といえる。

 完全である証拠に、悪しきと見えし現象から愛に満ちた行為、醜いと見えし現象から心より感動する美まで、ありとあらゆるものが混然としてこの世に存在している。これらの現象はすべて、人が作り出したものであることは論を待たない。醜いものを作り出す能力を不完全さの要素と見るのではなく、その能力もまた人間の完全さの構成要素の一つであると考えるのである。

③ 完全とは何か
                
 「完全とはすべての条件を満たすこと」という定義から始まったのであるが、すべての条件とは、その条件と条件の間に当然の事ながら相反することも、相矛盾する事も含まれる。従ってこの条件をすべて満たすという事実は、並列的な概念の羅列の中には存在し得ない。

 では完全ということはあり得ないかというとそうではない。個別には相矛盾すると見えし事象でも、大きな目で見たときに必ず相補い合うエネルギーが働き、全体としては完全ということがあり得る。相反し、相矛盾する現象を含む無限の多様さと段階を持つ環境があるからこそ、「人間の心」は自由自在な選択ができる能力と素質を生かすことができる。

 またその環境である弱肉強食と言われる自然界もまた連鎖の全体を見たとき完全なものとして作られているという説は、論じるまでもなく容易に受け入れられる。しかし、もう少し深く考えてみることにする。

 動物や植物にも感覚(センサー)はあるが、人間のような心というものは無い。もしあったとしても、人間ほどの自由度・多様性・高度さはない。また、人間と動物の中間的な心を持った存在というものも、「全く」存在していない。少なくとも、人間というものは三次元世界において、非常に「特別な存在」であることがわかる。

 また、人間のいない三次元宇宙、人間のいない自然環境というものはどうであろうか。その存在を認識できる者が誰もいないとしたら、そういう世界が存在することにほとんど意味がない。仮にその様な世界を創造した神がおられたとしても、神にとって実に寂しい限りである。

 やはり、自然界の中で楽しく喜びに満ちた心、躍動する心が創造主に感謝する姿を見て、神も真に喜ばれるというのは容易に想像されることである。この事から自然界は、「心を持つ人間という集合体」をより完全なものにするために存在しているという結論に達する。

 完全な心を持つ人間と、その生活環境である自然界もまた完全であるとして、その両者によって構成されているこの世は完全であるはずである。しかし一見して、何故、理想世界とは見えないのであろうか。果たしてこの世は完全な世であるかどうか、理想世界であるか否かについて迫るために、まず「理想とは何か」ということについて考察する。

3.理想とは何か

① 誰でも知っている理想という方向

 この「理想」という言葉もよくよく考えてみると、一口にこうだとはなかなか言えないことがわかる。しかし、不思議なことに理想という言葉を使用するとき、すでに理想とは何かを直感的に知っているようにも思える。

 前述の完全という言葉は、すべての条件を備えていること、あるいはその能力または資質を持ったものということができたが、条件・能力・可能性を行使する「心の運動の方向性」というものは含まれてはいない。

 しかし、理想という言葉は明らかに何かの方向性を表すものであり、その方向性をすべての人は直感的に知っていると言える。それは戦争ではなく平和、排他ではなく調和、衰退ではなく成長と繁栄、悪ではなく善と正義、偽善ではなく真実、憎悪ではなく愛、・・・・・・・・・・ではないかと思う。

② 二元論の分岐点は

 このような言葉の存在そのものが示すとおり、この世には一見すると相反すると思われる二つの概念が存在している。これは広い意味で二元論と言えるだろう。しかし相反する二つの概念を結ぶ直線上において、どの一点、あるいはどのレベルが理想と呼べるかということに念いを巡らせたとき、明らかに相反すると思われていた二つの概念には明確な分岐点があるのか無いのか定かではなくなってくるのである。

 毎日、腹を空かせている人にとっては、一切れのパンを食することが理想であるかもしれない。何が理想かと考えたとき、それは相対的なものであり、絶対的な理想というものは存在し得ないのではないかという仮説が成立する。しかし、直線のどこかのポイント(現在の人類・個人の立場)に立って眺めると、一方向が理想である事がはっきりとわかる。さすれば、理想とはこの二つの概念を直線で結んだとき、プラスの概念の存在方向を示すベクトルとしての言葉であることが理解される。

③ 生きる指針としての理想 
        
 人間の心には、この理想という方向性を、何から学ぶというのではなく、全員が心の奥底に持っており、そして多くの人間はこの方向性を一つの生きる指針としているように思える。少しでも理想的な人生・理想的な家庭・理想的な社会を築こうという方向の中で、努力・調整が様々な段階で行われているのである。

 であるから、この理想という言葉は、人間の進むべき方向性を示す言葉であり、人間は無意識にその方向へと向かって努力するように造られているのではないかという結論に達する。そう考えたときに、この三次元の世界、人間の生きている世界は、まさに理想を追い求めている世界であり、これはおそらく、人類の文明ががいかに高度に進化してもやはり変わることはないと思われる。すなわち、人間は過去・現在・未来を通じて、理想とする方向へ向かって永遠に努力するように作られているということになる。

④ 現在は理想世界という一断面

 以上の考察から導き出されることは、絶対的理想世界というものが存在するのではなく、相対的理想世界が存在するのである。従って、一見すると理想的世界とは見えないこの現在の三次元世界は、過去の人類史から見ると理想世界の方向にあり、過去から見ると理想世界と言えなくもない。それは、時空を越えて進化している人類史の一断面であり、すなわち理想的な世界の一表現なのであるということができるのである。

 従って、時空を貫く連続した人類の進化というものを考えたときに、その連続する細長い時空間を時間軸に直角に切断した断面、すなわち《現在ただ今のこの世》はすでに理想世界の一断面であり一表現でもある、と結論づけられるのである。

4.平和とは何か

① 悲劇の中から生まれるもの

 理想の一要素である平和な世界について考えてみたい。前述の理論に従って考えると、この言葉の持つ意味も自ずからある結論に達する。

 殺戮・戦争・破壊・淘汰・悪・死・病気・けが・失恋・・・・・・のない世界が平和と言えるであろうか。苦痛・悲しみ・憎悪・のない世界は平和と言えるであろうか。悩みや努力のいらない世界は平和と言えるであろうか。一見すると確かに平和であると言える。しかし、この三次元世界を肯定し自然界を肯定したとき、また永遠の時間というものを意識したとき、また人間の心の偉大さという視点から考えたとき、果たしてそうであろうか。

 破壊に対しては創造、死に対しては生、排他に対しては調和と愛、悩みや悲しみに対しては喜び、臆病に対しては勇気、卑下に対しては尊厳・・・・・・・このように、不思議なことにこの世には相対立すると見えし言葉や概念が必ず存在している。

 人類の歴史を振り返ってみると、戦争と略奪、破壊と侵略の歴史であったとも言える。数々の悲劇は事実であるが、その中で勇気、智慧、愛というものがはぐくまれ、富の一極集中は文学・絵画・彫刻・巨大建造物など、創造と芸術の原動力となり、数々の文明のうねりを造ってきた。また、科学や数学そして哲学のようなものも、貴族社会による富の蓄積があってはじめて高度なものとなってきたことも確かである。

 一方では、冷戦時代に象徴されるように地球が何度も破壊されるほどの危険性をも生み出した。基本的には現在もその通りであり、現在この地球は死に直面していることは間違いない。だが、その中で必死に人々は努力して、危機を避けようとするだろう。そして何かを生み出していくに違いない。現在の地球を救うのもまた、人の心なのである。

② 絶対的な平和は本当に平和と言えるか
        
 ここで、もしどちらか一方の一元的な言葉と概念しか存在しない世界は、どのような世界になってしまうであろうかと考えてみる。 逆説的であるが、平和な世界は果たして平和であると言い続けられるであろうか。愛のみの世界に果たして愛は本当にあると言えるであろうか。死のないところに真の生はあると言えるであろうか。

 人間から心を取ればばただの動物にすぎない。前述のごとく、心が人間の大きな特徴であり、心がすなわち人間の本質そのものであるとする。その心のさらなる本質は「自由」ということである。自由とはすべてにおいて自由なのであるから、ロボットのように同質であっていいはずがない。

 平和のみ、愛のみ、生のみの世界は、起伏のない、同質で、努力しなくてよい、それは芸術性のない世界を創り出し、心の自由は著しく限定されてゆき、やがて平和・愛・生という概念すら人の心の中から消滅していくことであろう。これは、心が退化していくことに他ならない。退化の極大値は、すなわち人間が動物に退化することである。極値においては心さえ消滅してしまう。

③ 高度に感じることができる心

 高度に感じる心があって、はじめて平和という概念が存在する。この高度にものごとを感じ、思索する心は如何にして生命を得ているかと言えば、それは静的な平和、静的で一元的概念の無風状態の中ではないことに気づく。すなわち無風状態の中には、高度に感じる心も、本来の平和という概念も言葉としての生命を得ることができない。従って、静的な無風状態の平和というのは存在そのものに意味がないのである。

 現在、この世の中を平和と見るか、平和ではないと見るか、それもまたその方の心の自由である。しかし、戦争・貧困・悲劇・困難という現象の中でも、あきらめずに未来に光を見いだし、互いに励まし合い、愛し合い、努力する人の心は光明に満ちている。そのような方の心は平和というものをしっかりと認識している。これがすなわち平和という概念・言葉が生命を得ると言えないであろうか。そのような心の方々が一人でも多くなるとき、多数を占めていくとき、真に平和な世界が築かれていくであろう。

④ 心の動的な作用の中に生命を得る

 すなわち、外見的な形態の中に平和があるのではなく、人の心に平和が宿り生命を得ると言えるのである。過去の人類史の数々の悲劇は人間の心を大きく成長させてきた。また現在、人類が受けようとしている未曾有の試練はさらに大いなる心の成長を約束するものである。 天国とこの地上を輪廻転生する意味、この地上の存在の意味がわかりかけてくるのではないだろうか。

 風は空気が移動することによって初めて生命を得る。人から人へ伝わり増幅していってこそ愛は生命を得る。すなわち絶え間なく変化する中において生命を得るものがあるのである。平和というものも実はこの様なものではないのか。すなわち、静的な平和というのは一時のものであり、真の平和とは限りなく理想を求めていく、人の心の動的な作用の中に生命を得る。生命を得るということは、人々の努力によって永遠の命を与えられるということである。

 そう考えると、困難と見えしものも、不幸と見えるものも、その一切が時空の一つの通過点であることになる。時空の断面ではそう見えるだけであり、時空を超えて眺めたとき、あるいは一段高い次元から俯瞰したときには、また別の姿として見えるのである。その通過点という断面において、人が如何に考え、如何に念い、如何に生きるかという偉大な心というものが実は平和を創り出すものであることが分かるのである。

5.調和とは何か
                     
① 三次元世界の特徴

 三次元世界というものを肯定するかどうか、この問題は前述の議論すべてに関係する問題である。三次元世界の特徴は物質である。エネルギーと異なり、物質の特徴は永遠不滅ではないことである。かつ質量と大きさが存在しているということであろうか。そして、「誕生・成長・衰退・死」に代表されるように、形あるものが時間の経過とともに変化していく。また、変化していくことで時間が経過していくともいえる。ここで大事なことは、時間は決して後戻りしないということである。

 なぜ、形あるものが変化するのであろうか、いや、しなくてはならないのであろうか。この世は不思議なことにこのようにできている。これを理不尽と考えるか、すばらしい芸術の世界と考えるかという問題についてを考えてみよう。

② 死の無い世界とは

 もし「誕生と成長」があり「衰退と死」が無い世界があればどうであろうか。動植物も物質も限りなく生成し成長していく世界となる。限られた空間はたちまち満杯になり、そうならないためにはそれに併せて空間が膨張してゆかなくてはならない。極端な話として、空間が膨張していくのであるから友人や家族とは行き来できないほど、時間の経過とともに互いに離れていかなくてはならないことになる。

③ 一切が変化しない世界とは

 では、現在あるものだけの世界、「誕生・成長・衰退・死」という変化の一切がないという世界はどうであろうか。毎日、何も変化しない世界は果たして楽しく幸福な世界であろうか。絵を楽しもうとすると、書き損じもできない。物をうっかり壊すという楽しみもない。子供は永遠に子供。老人は永遠に老人。食事をして肉を食べたり、穀類を食べる楽しみも許されない。そのような世界であろうか。

④ 動的な調和とは

 調和にもいろいろな形態がある。大きくは静的な調和と動的な調和である。前述のごとく、静的調和の世界(何も変化しない)というのは、人間にとって幸福な世界とは言えず、実に退屈な世界であることは容易に想像できる。従って変化していく中にこそ、調和の原理が存在する事がわかるのである。

 変化していく中での調和、動的な調和とは何か。そこで、創造と破壊が同時に進行する中に調和の原点が存在するのではないかという仮説を考えてみる。波打ち際の足跡は、波が寄せるたびに波の泡と消えていく。そしてまた新たなる鮮やかな足跡を残すことができる。波が寄せては返すという作用が、あの砂浜をいつまでもすがすがしいものにしているのではないだろうか。

 新たな文明を築き、新たなる価値観が根付かせるためには、古いものは消え去らねばならない。肉体が滅びても、人間の本質は心であり、心は永遠不滅で輪廻転生するという仮説が真であるならば、過去の文明の栄枯盛衰というものは肯定されていくはずである。

⑤ 創造と破壊 
                    
 創造と破壊を肯定する中でいかに調和づくりをしていくか、そういう努力の中で人間の勇気・信念・情熱・愛が試され、智慧が磨かれてきた。創造と破壊の連鎖の過程においてはトラブルも起き、摩擦も起き、あるいは戦争も起きる。戦争を肯定するつもりはないが、動的な調和というものの一つの通加点であり、プロセスとして必然的に起こり得るものであるといえる。

 そして動的な変化の中における諸現象は、なかなか調和とは見えない。しかし、動的な変化の中でも、全員がそれぞれ調和するという意識を持てば、それがたちどころに可能になるはずである。なぜならば、調和とは人と人が作り出すものであるからだ。とすれば、創造と破壊という動的な作用の中で、調和を築こうとする人間の心の働きに意味があり、またそれが最も尊い行為であるという認識ができるのである。

⑥ 真の発展と調和とは何か

 「誕生・成長・衰退・死」というのはあらゆる物にある。文明・文化・動物・植物・人間・・・・・・この三次元全体が、いや、大宇宙そのものがそういう性質を本質的に持っている。

 人類が進化していくためには科学的にも発展し、経済的にも繁栄していく事が必要である。そしてそこには創造のための破壊が、繁栄と発展のための滅びが必ず存在することがわかった。そして、その中で限りなく調和を求めていくという念いが、結果として「智慧・勇気・愛・・・・ 」というものを育み、鍛錬し、より強く優れた人間の魂が創られていくであろう。

 そう考えてくると、この三次元世界は「発展という動的な変化の中に調和を求めていく世界」として、本来は造られていることがわかる。そして、調和を求める心が真の調和を作り出す。調和を真に実効あるものにするのは、人間の心のプラスのエネルギーの作用であると結論づけられる。そして、それは我々一人一人の発する念いから出発するのである。

6.三次元地上世界における理想国家とは何か

 「完全・理想・平和・調和」この四つの言葉の持つ意味を考えてきた。考えるのもまた人の心であるから、ここで導き出した結論を間違いだと思う人にとっては、その通りの世界がその方の世界観となる。しかし、そう考える方には永遠に理想世界というのは具現化しないであろうし、またそのための努力というものも空しいものならざるを得ない。

  この世は完全でない、人間も完全ではない、理想的な世界ではない、平和な世界とは言えない、調和などしていない、という論理の展開をする事は非常に簡単なことであると思える。筆者もその様に論理を展開することは多分できると思う。

 しかし、そのような思想では、この三次元世界で魂の修行をしても、余り多くの学びは得られないであろうし、魂の腰も強いものにはなっていかないのではないだろうか。如何に苦しく、醜いと見えし現象が数多くあろうとも、この三次元世界を理想世界にするのはまずその方の心の在り方から始まるのであれば、念いのベクトルを少し変えるだけで、この世は直ちに理想世界と見え、その人の心の中にもまた理想世界が現出する。

 そういう方が一人でも多くなっていくことが大事である。

7.善悪二元論と光一元論の思想
         
① 光一元思想は時空を貫く軸、善悪二元の思想は時空の断面

 人類の進化という時空の一断面において、二元的な見方をしているだけではこの様な結論には達しにくい。本論は、むしろ時空全体を一筋のベクトルと見、光一元的な論旨の展開をすることによって得られる結論であることに気付かれたはずである。

 時空の一断面において、現在値を正確に知るという作業、すなわち善悪二元論は、物事の確かな認識の一助として是非とも必要な事である。しかし、念いの在り方と行動の方向性は、断面の連続したもの、すなわち時空の中で考えることによって、より正しいものが観えくてるのである。

 時空を貫く念い、これすなわち光一元の光明思想に他ならない。善悪二元論と光一元の思想は相対立する思想ではなく、時空の断面で考えるか、時空の時間軸で考えるかの違いであり、二元論と一元論は人類進化の時空というベクトルを構成する一つの要素であるという認識に到達する。

 従って、どちらか一方の思想が欠けた世界は、この時空そのものがこのままでは存在できないのである。静的な調和、静的な平和で論じたように、一元的な世界というものは生きていることにほとんど意味がない世界となるだろう。また二元的な世界だけでは人間に進歩がないばかりでなく、悪魔と神が相対立する世界が現出しかねない。

② 理想世界はいつの時代にも常に存在していた

 すなわち二元論と一元論の思想は神の世界を構成する非常に大事な要素であり、神に向かって限りなく進化するという動的作用を生み出す原動力になっているという認識に到達する。これを相対立するもの、あるいはどちらが優れているかと論じてみたり、また「我は光一元論者なり、我は二元論者なり」と宣言することが、もはや全く無意味であることになる。

 一元論と二元論という分類のどちらか一方から物事を見るのではなく、まさに時空の断面を見る目と時空の時間軸を見る目と、この両方の見方ができること、そしてその上でいかなる念いをもち、そして行動するかという事が重要になるのである。そうであってこそ、真の繁栄と発展、また人類の魂の進化というものが確かな道筋として観えてくるのである。

 人類進化の時空における断面において、その各断面の中だけで物事を見ると「不完全な・理想とはほど遠く・平和でない・調和のない世界」であるように見える。しかしながら、その断面を時系列に並べ一つの時空としてみた場合、各断面はそれぞれが理想世界の一表現であることに気付く。

 その断面を貫く神の念いのエネルギーの力によって、いつの時代においても理想世界が本来既に存在していたのである。そう考える方には、実際にそういう世界がたちどころに顕現するのである。

8.おわりに 
              
 本論文を読んでその内容に共感する方は、直ちにその念いを強く強く持っていただきたく思う。その念いを強くすることは、その方の感化力もまたより強いものとなり、日々の生活を通じてより多くの方にそのエネルギーは伝播していくはずである。

 これから数十年間、人類全体においても個人においても様々に困難な試練が待ちかまえていると思われる。それでも、この三次元の世界の中に「完全・理想・平和・調和」を観、心に理想世界の本質をありありと描ききることが、人類の試練をより早く終わらせ、またその中から多くの学びを得ていくことになるに違いない。



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