ヨハネの黙示録・全ての謎が分かる

The Seven Seals

はじめに 

 映画やビデオ、アニメの中には、未来予言、未来技術、霊界に関するテーマが以外に多くあります。精神世界に対して明確な意識を持っていない、あるいは霊的世界を否定するごく普通の人であっても、この様な映画やビデオを大いに楽しんでいます。

 来るべき未来、また死後の世界に対する意識改革が、娯楽という事を通して進められていることに、私は神の計らいを感じます。映画の撮影にかかわっている作家・プロデューサ・その他の関係者達本人が意識しているかどうかは別にして、天上界から数多くのインスピレーションを受けていることは明白です。
 

1.霊界物語の特徴

 「ロード・オブ・ザ・リング」は、「面白いよ」と家族が誘ってくれた映画です。それで何気なくビデオを観ていると、ああこれは霊界物語だと私は思いました。私はあらすじに興味はありませんが、どういう次元の世界を描いているのか、次元を越えていくときどのように描いているか、霊界の人間と動植物をどのように表現しているのか、そのような点に大いなる興味を持って観ました。大変うまく特徴を捉えた映画だと思います。

 「これは現実にある霊界をベースにした物語だよ」と家族に言いましたが、本人達に現実感はありません。あくまで空想物語として楽しんでいました。この映画におけるただ一つの欠点と言えるのは、あの世の世界・霊的世界の物語であると明確に言えないために、意識と念の集合が地獄の荒涼とした山河を創り、また住人の姿形もしかり、さらに怪物や動物と見えるまでに人霊が姿を変えてしまっている、という大原理を言えないことにあります。

 登場する人物の衣装や、何故化け物のような人間がいたり、沼地に怪物が住んでいたり、大木が話しかつ動いたりするのか、また断崖絶壁を昇っていくのか、火を噴く山があり、何故火炎地獄のようなところがあるのか、また最後の方に、城を守る軍隊と地獄の軍隊とが戦う場面があるのですが、突然、空中に炎のリングが浮かびました・・・あれは一体何でしょうか。

 この様な点について、解釈と説明をしたいと思います。
 

2.天国から地獄へ旅する真の目的      

 この物語では、天国のおそらく五次元善人界の住人である少年達が、世界を滅ぼす魔力を秘めた指輪を、滅びの山の亀裂に捨てる事を目的として、地獄界へと旅をします。

 本来、天国から地獄へ旅する目的は、地獄から脱出したいという心の状態に至った霊魂を導き救いあげるために、高次元世界から低次元世界へ降りていく事にあります。そして、地獄へ旅する本人もまた、他を救うという奉仕活動を通じて、愛というものの本質を深く学んで行きます。その結果、自らの霊性もまた次第に向上していくのです。

 ロード・オブ・ザ・リングでは、霊界物語であると明言していませんので、前述のような目的が設定されたのでしょう。

 地獄と天国を、悪魔と天使の対立という構図でイメージされている読者がいるとすれば、それは全く違うと申し上げます。地獄もまた、《神の手の平の上》にある存在であり、地獄霊に関する情報は管理されています。更に救助という使命を持った天使達は、自在に地獄のあらゆる場所に出没することができ、かつ要所に配置されているのです。

 地獄とは、心の病を持った人たちを治すための病院に例えられます。ですから、病棟の隅々まで神の目は届いており、一人一人の霊魂を慈悲のまなざしで見守っています。同じような霊魂が集まることで、馬鹿なことをしていた自分、また互いの醜さにやがて気がついていきます。病を治すのはあくまで自分自身であり、それにはまず《悟る》という事が大切なのです。

 その世界をつくづく嫌になる事で、自らを反省し救いを求める素地が生まれてきます。その時、手を差し伸べる天使が現れるのです。この様にして地獄霊の霊性の向上が、長い時間の中で醸成され、悟りという階段を一歩昇ることができるのです。

 その後も、一足飛びに天国へ上がることはできませんが、霊性が一段向上する度に次の天使が現れ、次第に明るい世界へと導かれます。しかし、少しずつ明るい世界へ上がるための境界を通過するとき、荒涼とした断崖絶壁のような場所の旅を続け、更に身を焦がすような心の苦痛に耐えなくてはなりません。

 皆さんでも、手が凍えた後に手を温めると、手がしびれたように痛くなる事を経験されたことがあるでしょう。それに似て、冷たく暗い世界から、一段温かく明るい世界へ上がるとき、その世界のエネルギーの高さ故に、それに慣れるまで、霊体全身が火傷を負うような苦痛に耐えなくてはならないのです。

 もちろん、天使達は自在に次元の壁を通過し、瞬時に移動できます。しかし、天使の姿をそのまま地獄に現しても、地獄の霊魂には眩しくて見ることができないため、その世界に適合するレベルまでエネルギーを落とし、また姿を変えて行くことになります。

 この物語は、指輪にまつわる物語ですが、以上のような基本的な知識をもって見ることで、何故、地獄の深部まで旅するのか、そしてこれから説明する幾つかの特徴もまた理解されるはずです。

3.「白い馬」に乗り、「白い衣(ころも)」を着た老人  

 少年達が旅を続けていく間、様々な危機に遭遇します。そして、それを助けたり道案内をしたりする人々が登場するのですが、中でもとりわけ印象に残っているのは「白馬に乗り、白い衣装を着た老人」です。役柄としては「魔法使い」という事になっています。

 物語の役柄としてはそれで充分かも知れませんが、私はこの物語を霊界探訪として最初から観ていましたので、この老人の登場を「助っ人の天使」が現れたと認識したのです。では何故、天使であると認識したのか、その理由について述べてみたいと思います。

 そのカギは「白い馬」と「白い衣」にあります。

① 「白い馬」 

「ヨハネの黙示録」には「白い馬」がたびたび登場するのですが、その一節を紹介します。

[19-11] またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
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[19-14] そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。

 [白い馬]は、天使が聖なる使命をもって下界へ降りていくときに乗る馬であり、使命を果たそうという決意のようなものを象徴しています。[19-11]は、救世主が霊的浄化のために地上へ降りていく場面の一節であり、[19-14]は、従う天の軍勢の様子を表しています。

 「汚れのない麻布の衣」も次回で説明する「白い衣」の一種です。衣は心の状態を現しています。ですから、「汚れのない」は一点の心の曇りもない事、そして「麻布」は非常に丈夫な白い衣を強調しています。やはり簡単には負けない、粘り強さを心に秘めているという象徴です。

② 「白い衣」                 

「ヨハネの黙示録」には「白い衣」が至る所に登場します。その幾つかを紹介します。

[3-4] しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。

[3-5] 『勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。』

[3-18] そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
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[4-4] また、御座(みざ)のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。

* [3-4] 「わたし」とは大指導霊の一人であり、「父」は全知全能の神を指す。

* [3-5] 「勝利を得る者」とは、悟りを開いて使命に目覚めるという意味で、人間の本質は霊であることに気づき・信仰に目覚め・人生の意義について知ることをいう。

* その他、富む者、金、裸の恥、目薬にはそれぞれ意味があります。

[22-14] 『いのちの木にあづかる特権を与えられ、また門をとおって都に入るために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。』

*「自分の着物を洗う」とは、「心を洗う」「衣を白くする」「白い衣を着る」という意味であり、生前の生き方や念いのあり方などを十分に反省し、「心の汚れを落とす」ことを指します。

 「白い衣」は心の清らかさの象徴です。「白い衣 」になった者は天国の門をくぐれるとあります。霊的世界の特徴は、心の状態がその人の顔や衣装、身につけるもの、また住居、そしてその環境を創り上げていきます。衣装は魂の一番表面にあるものであり、心の状態を100%現していると言っても過言では無いのです。

 ロード・オブ・ザ・リングに登場する「白い馬」に乗り、「白い衣(ころも)」を着た老人は、前述したように「魔法使い」という事になっていますが、「助っ人の天使」という使命を持っているわけであり、様々な霊力を行使しつつ、少年達を援助していきます。

 項目2の冒頭で、「おそらく五次元善人界の住人である少年達」と書きましたが、五次元善人界とは、正に善人のみが暮らす世界であり、精神性に目覚め、自らが霊的な存在であることを知っています。精神性の主体はもちろん善です。

 そして、住人の霊性の向上を図るため、天使達がエネルギーを落とし、姿を変え、先生・指導者として様々な導きをしています。住人の一人一人に何らかの指導が必ず行われています。これは、天国の各次元全てに共通しています。しかし、五次元住人は神様の存在を知っていますが、「いるらしい」という程度の認識であり、本格的に神理を学ぼうという意識はまだありません。

 この様に観ていくと、「白い馬」に乗り、「白い衣(ころも)」を着た老人と少年達の関係がわかるのではないかと思います。

4.化け物のような人間、鬼      

 人類がこの地球へ最初に飛来した当初、地獄はありませんでした。余談ですが、光の速度で数十万年かかる三次元空間を移動する事は、肉体の寿命がありますから、普通ならとうてい不可能です。そこで、異次元空間を飛行し、時々三次元空間に姿を現すように島づたいに飛行することで、数年または十数年という時間で、この不可能と考えられている三次元距離を短時間に飛行することが可能になります。

 しかし、科学技術の発展だけでは不可能なのです。魂を肉体から一旦分離し、肉体を一時的に分解しなくてはなりません。時々元の人間に戻るためには、精神が高度に調和されていなくてはならないのです。もちろん、そうでない場合は肉体は伴わず、無数の魂が集合し、蛍の集団か火の玉のようなイメージで飛来することも原理的に可能です。実際にそうした魂も多く地球にはいるようです。

 地獄の創成と形成について語ると別のテーマになってしまいますのでこの場は割愛しますが、化け物のような人間や、鬼と呼ぶにふさわしい霊魂が、最初から地獄に生息しているのではありません。冒頭で、地獄はもともと無かったと言いましたが、地獄が無かったのですから鬼も当然いなかったことになります。

 一般的な地獄の住人は、自分が本来霊であること、死んで肉体は無いこと、何故この様な所にいるのか、そういう確かな認識はありません。ですから、地獄の風景や、姿と形、それらは彼らが積極的に創造したものではないのです。

 その霊人が持っている意識・念というエネルギーが、その人の姿、形、表情、衣装などの全てを創り上げていくのです。ですから、闘争心に燃え、悪鬼の心を持てば、ごく自然と悪鬼の姿になっていきます。蛇のように執念深いという言葉がありますが、そのような魂は、正に大蛇の姿に変貌していきます。

 人間の本質は霊であり、霊とは本来姿も形もない生命エネルギーです。ですから、心の持ち方でどのような姿にでもなり得るのです。

5.巨大なクモ、沼地に住む怪物、歩く巨木、空を飛ぶ恐竜 

 主人公一行が断崖絶壁を登りきった所で、巨大なクモに襲われます。また、薄気味悪い沼地に怪物が住んでいたり、薄暗い森林の中で巨木が歩いたりする場面があります。

 おとぎ話であるならば、架空の物語として、ハラハラドキドキしながら誰もが楽しめることでしょう。しかし、真実の霊界において、現実にある話であるとするならば、死後、貴方もやがて経験するかも知れないのです。

 前述したように、地獄が最初から霊界にあったわけではなく、神が意図的に創ったわけでもありません。では、動植物が死後地獄へ堕ちるかと言えば、そうは考えられません。そもそも地獄とは心の病を持った霊魂が集まってできています。すなわち、地上に生きたことを契機として、強いマイナスの念を持ち、様々な欲望に執着したままの霊魂であるのです。

 では、動植物が強いマイナスの念を持つかどうかですね。余程人間にいじめられたりすれば、あながち否定できないかも知れません。しかし、動植物も本質は霊魂ではありますが、もともと人間のような高度な心を持っていませんから、いじめられたことすら認識として薄いだろうし、また永く記憶に止めることも難しいのでは無いかと思います。

 とするならば、地獄の住人あるいは悪魔サタン、地獄の帝王が創造したのか、という事になります。サタンと呼ばれ、ルシフェルあるいはルシファーと称される者は、もとは大天使(仏教では如来)の一人であり、地上を縁として堕天使となったのですが、強い念の力、強い霊力を持ちますから、地獄の妖怪や怪物達を創造する力はあるだろうと思います。

 しかし、無数の生物を創造したり、無数の山河を創造するのは、やはり一朝一夕にというわけにはいきません。霊界で天使達が力(念の力、すなわちエネルギー)を合わせて、霊界の建築物や景色、動植物を創造する場面がHP「七つの封印」の書籍紹介にある「べールの彼方の生活」に記されています。

 サタンは、地獄を支配する権力欲と、地上を惑わし破壊する意欲を強く持っていますが、おそらく地獄の山河を創り、怪物を造り続けるという創作意欲や忍耐力があるかといえば、そうは思えません。また、霊界通信や霊言書にもそのような記述は見受けられません。

 これは私の推測ですが、巨大なクモ、沼地に住む怪物、歩く巨木、空を飛ぶ恐竜、これらは全て人霊のなれの果てと言いますか、人の魂が変貌したものです。心が鬼になれば、鬼のような姿形になり、暗闇でのたうち回るような苦しみの中に生きていれば、沼地の大蛇とも竜とも言える怪物になり、同じ原理で歩く巨木、空を飛ぶ恐竜にも成り得るということです。

 ただし、歩く巨木と、空を飛ぶ恐竜という設定には若干の疑念があります。人霊が木のように姿を変える理由は次のように考えられます。自殺した人や自閉症のまま死んだ人のように、あの世を強く否定しかつ内に心を閉ざしたまま死ぬと、沼地の立ち腐れ木々のようになってしまい、あるいは横穴の奥に蝉のように冬眠している姿となり、よく見ると顔らしきものがあるという具合となります。従って映画のように話したり歩いたりはおそらくしないだろうと思います。

 空を飛ぶというのは、地獄において実は非常に難しいことなのです。何故なら、空間を意識的に移動するためには、自分が霊であることを知っていて、かつ魂の軽さが必要なのです。魂の軽さというのは、エネルギーとして観たとき鈍重でないという意味であり、別の言葉で言えば物事に執着していないという意味です。ですから地獄霊が空を自在に飛ぶというのはあり得ないと思うからです。

 しかし、そこは映画であり、おとぎ話としてプロデュースしていますから、些細な問題として受けとめればいいかも知れません。
                        

6.地獄霊とはマイナスの念いに心全体を支配された霊である

 ロード・オブ・ザ・リングという主題から少し外れますが、ここで地獄霊について確認しておきたいと思います。

 天国も地獄も無数の多様性と深さ高さを持ちつつ、それぞれの世界を創っています。霊の持つ心の状態によって住むべき世界が決まるわけですが、もう少し科学的に言うならば、霊とはエネルギーであり、その心が持つ周波数の組合せとその強さによって、似たもの同士が自然とその世界を構築していくのです。

 天国では、意識的に風景や動植物を創造し、建物を建設し、地上にある全ての物や道具、あるいは芸術、科学、書物、ありとあらゆる物があります。地上にあって天国にないものと言えば、地獄的なものだけでしょう。むしろ、地上になく天国にある物はさらに多様であり全てが輝くばかり、地上的な表現方法では不可能な美しさであるようです。

 しかし、地獄の世界はそうではありません。地獄の住人は他人を想い合ったり、助け合うことなど全くできない霊ばかりです。他から害される前に他を害する事ばかり、あるいは満たされない気持ちで焦っていたり、とにかくある事に心全体を支配され、本来の心を見失っているのです。

 この話を聞いて、私は大丈夫だと思う人が大部分だと思います。しかし、果たしてそうでしょうか。

 地上に生きている間は、生きるために様々なことに考えが及んだり、また仕事に子育てに夢中にならざるを得ない、また多くの雑用に心が振り回される毎日です。そして、生活時間の1/3から1/4は睡眠として取らなくてはなりません。ですから、何かに執着する心、恨みや妬み、猜疑心、名誉、お金、情欲、・・・・沢山ありますが、これらのマイナスの想念の多くは、生きるための雑用の中に、また潜在意識に埋もれています。

 しかし、死後はそうではありません。肉体を持ち生きるための一切の雑用、仕事も、子育ても、睡眠もしなくて良いのです。そうすると、生前の雑用に埋もれていた「プラスの念い」と「マイナスの念い」が表面に出てきます。もしマイナスの念いが強ければ「マイナスに執着した心」が心全体を支配するようになります。

 潜在意識に埋もれた、また雑用に埋もれていた想念について、もう少し正確に言う必要があります。もう既に風化したと思えたり、忘れている過去の記憶が、実は心の中に確実に記録されており、それがマイナスの想念や行いであれば、光化学スモッグのように、心の奥底で曇りを絶え間なく造り、マイナスのエネルギーを放射し続けています。

 過去の心の精算、反省をしっかりとやって、心の曇りを取り、その後も日々心の点検を続ける人はそんなに多くはないのが実情です。結局は、死後にその反省と心の浄化をたっぷりとさせられることになります。反省ができない人は、地獄という病院へ行くことになります。ですから、ごく普通に見える人が地獄へ堕ちることは良くある事です。女性の7割、男性の3割、平均で5割が一旦地獄へ堕ちると言われています。

 前置きが長くなりました。地獄霊とは、「マイナスの想念を強く持ち、執着している霊」であるのです。これをまず理解しする必要があるために、長々と説明しました。  
                      

7.断崖絶壁、火を噴く山々、火炎地獄      

 断崖絶壁は、地獄における異なる世界の境界を象徴しています。その世界のマイナスの想念の集合が他の世界と余りにも異なる場合、断崖というイメージとなり、そのイメージが固定化されて、そのような荒涼とした境界を創り上げていると考えられます。話の筋を覚えていないので、怪物が住む沼地や、歩く巨木はこの断崖絶壁の前か後かは記憶していませんが、いずれにしてもその前後だったように思います。

 全く異なる世界ほどその絶壁は高くなり、また二重三重に境界があると言っても良いかもしれません。大きな分類の境界があり、小さな分類の境界があり、そして個別の世界の境界がまたある、そのように考えられます。霊的世界は、三次元のこの世の世界のように平面的ではなく、極めて立体的であるという認識が必要です。

 余談ですが、地獄に地図があるかというとたぶん無いと思います。地獄霊は自由に移動できませんから、地図を製作する能力も無く、またそのための根気良さもないからです。しかし、地獄を監視する役目を持った天使は、当然のこととして地図を持っているはずですし、現代的に言えば、ナビを持っていると私は思います。紙に印刷した地図、ナビという機械という意味ではなく、心に念じれば立体地図が見え、行くべき方向がたちどころに分かるという意味です。

 断崖絶壁を登り切ったところで巨大なクモに襲われ、更に旅を続けると、やがて目的地である火を噴く怪しげな山々が見えてきます。燃えるような闘争心に心全体が支配された地獄霊の集まった世界、阿修羅地獄とも言いますが、その想念エネルギーの雲がその世界全体を覆います。

 強烈な想念が、その世界の境界である火を噴く山々を形成し、そして主人公達は火炎に包まれた谷を渡ることになります。この火炎は、強い闘争心というエネルギーそのものであり、物理的な火炎ではありません。

 ですから、そのエネルギーを跳ね返すだけの強い意志と使命感、また強い信仰心がそのエネルギーに打ち克つとき、火炎によって火傷を負ったり、はね返されることは無く、無事通過できるのです。

8.地獄の軍隊               

 地獄の特徴の一つに、同じ事を飽きもせずくり返す事があります。何十年もです。永くなると何百年も、何千年も、更に・・・・・地獄の帝王などは一億年以上やっています。

 阿修羅地獄は闘争と破壊の世界ですから、飽きもせず戦いをやっています。当然、双方切り刻まれたり、霊的ボディをバラバラにされますが、しばらくするといつの間にか復元して、また軍隊として集結し、再び戦います。

 同じ波長を持つ霊達が集まっていますから、一人として真の友達などはおりません。阿修羅地獄では、殺される前に相手を殺さなくてはならないという、そういう観念に捕らわれた霊ばかりですから、心の安まるときなど一刻も無いのです。

 霊的な覚醒が進んでいませんから、観念だけで行動しています。死んだことに対する明確な意識が無く、夢を見ているような状態だと言えます。ですから、食事もせず、睡眠もせず、同じ事を何十年もくり返すことができるのです。

 しかし、何十年も同じ事をくり返していると、「俺は一体、何をやっているのだろうか」、「もうこんな生活から抜け出したい」、そういう一種の意識の覚醒が起きてきます。当然、闘争心は薄れてきますから、戦いに参加してもすぐに殺されたり、すぐにバラバラにされたりで、ようするにだんだん弱くなります。

 そうするとますます覚醒がすすみ、「助けて欲しい」という気持ちが心の一角を占め始めます。丁度、その頃、姿を変えたガイドの天使またはお手伝いが、導きのために現れるわけです。しかし、だからといって一足飛びに天国へ行けるわけではありません。もとの天国へ戻るためには、長い道のりと、更なる反省と覚醒が必要になります。

 地獄もまた魂の成長のため、大きなに経験になります。地獄に数十年、はい上がるのに数十年、もとの天国で100年、200年更なる学習の後、再び地上へ生まれます。何度も地獄を経験することで、肉体を持って生きるとき、次第に過ちを犯すことが少なくなっていくのです。

 地獄は、もちろん無いことが望ましいのですが、しかし輪廻転生による魂の成長という視点から考えたとき、やむをえない存在であるのです。ですから、地獄の隅々まで天使が配置され神の目が届いているのであり、心の病院に例えられると理解することが大切なのです。

 ここで、仏像の微笑みを思い浮かべてみて下さい。「神の慈悲」の何たるかを感じる取ることができるのでは無いでしょうか。

9.謎の空中火炎リング              

 筋書きは覚えていないのですが、シリーズの終わりの方だと思います。城を守る軍隊とこれを攻める軍隊とが激突する場面があります。

 城を守る軍隊が劣勢であるため、別の軍隊に応援を頼むのですが、これがまた面白いというか、亡霊の軍隊なのです。地獄で更に亡霊の軍隊が登場するのですから、お笑いか、と言えば私は必ずしもそうではないと思います。

 死後の世界、四次元以降の世界は何度も言っているようにエネルギーの世界ですから、次元が異なったり、波長が著しく異なると、互いに認識ができない世界です。ですから、心の波動として、多少のずれがある範囲内では、姿が現れたり消えたりしても、原理的に不都合はありません。

 城攻めのクライマックスに差し掛かったとき、短い時間ですが城の上空に「謎の火炎リング」が現れ、やがて消えます。これを一瞬で理解した人は大変少ないだろうと思います。私は、「とうとう出た、地獄の帝王、悪魔サタンの地獄と地上世界を見透す目だ」と密かに思いました。

 その形に特徴があるからです。皆様は「フリーメイソン」という秘密結社があることを御存知ですか。興味がある方は、調べてみてください。

 一ドル札に印刷された「ピラミッドの目」、それから日本の1,000円札、5,000円札、10,000円札の裏面を見てください。お札の裏面に、目のように見える模様があります。私も詳しい事は知りませんが、この目は地上世界を見透す目、悪魔サタンの目であると言われています。

 すなわち、この三次元地上世界を、悪魔サタンが支配している事を誇示するのが目的で、この様な秘密結社が組織されており、この様なピラミッドの目や、お札の模様がそれを証明しているとする説があります。そして、その説がまことしやかに言い伝えられているのです。

 私は、それが真実かどうかしりませんし、私にとって真実であろうとなかろうと、全く興味が無いことです。しかし、上記のように言われていることは知っています。そして、信じる信じないは別として、映画の原作者、プロデューサ達もこの事を知っていたと思われます。話を面白くするために、この火炎リングを登場させたのでしょう。

 お札に印刷された「目らしき形」と「謎の空中火炎リング」は非常に良く似ており、悪魔サタンの目を暗示するに充分な説得力がありました。

 この地上は、悪魔・悪霊が跳梁跋扈する世界であることは間違いありません。しかし、それは地上の人々の心の問題です。正しい心を持つ人々が増え、地上が霊的に浄化されていけば、彼らは次第に地上へ出ては来れなくなるからです。

終わりに

 読者の中で、この映画を観た方もおられるでしょう。私の言うような視点で観賞すると、また違った楽しみ方ができるかも知れません。読者は精神世界・霊的世界に大変興味があるはずです。まだ御覧になっていない方は、一度お試し下さい。



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