ヨハネの黙示録・全ての謎が分かる

The Seven Seals

◆◆◆ 実在界(霊界)の本質◆◆◆
2010.08.27 窪田光治

1.まえがき

2.エネルギーと次元
① 次元の存在という共通性/連続性1 ② 次元を越えて貫くエネルギー-連続性2

3.天と地は次元の境界-縦の不連続性
① 天国と地獄はどこにあるか ② 無数に存在する天と地

4.多様性の境界-横の不連続 

5.霊的世界(実在界)にも《その次元に相当する物質》がある
① 宗教は最先端の科学 ② 物質とは相対的なもの ③ 霊界の物質とは何か

6.霊的世界(実在界)にも《幽霊》が存在する

7.霊界を実在界と呼び、地上三次元物質世界を仮の世界と呼ぶ理由
① 生活時間の永さの違い ② 生まれ変わりの役所があり、過去の記憶が封印される
 ③ 霊界から地上を観ることができるが、こちらから霊界は見えない
 ④ この世は諸行無常/あの世は基本的に変化しない
 ⑤ 実在界はエネルギーが本質

8.三次元物質世界、この世の存在意義
① 肉体が持つ本質的意義 ② あらゆる次元、多様な魂が同じ空間で生活する
 ③ 出会いとチャンス ④ 様々な環境、時代や文明の違いの中で、色々な経験を積む
 ⑤ 肉体を持つ不自由さ/霊の自由自在さを知る ⑥ 成長速度と寿命 ⑦ 寿命がある理由
 ⑧ ゼロからのスタート、記憶が封印される意味
 ⑨ 魂の成長と進化

9.宗教は科学である/この世とあの世を統一する物理学の存在

10.この世とあの世を貫く大原理/エネルギーの輪廻転生-色即是空・空即是色


11.エネルギーの法則/神光物理学 11-1 波長導通の法則
① エネルギーの本質は波動であり周波数を持つ
 ② エネルギーの状態変化 ③ 波長導通の法則とは何か 
④ 周波数の違いが実在界の多様性と次元構造を創造する ⑤ 個性とは何か
 ⑥ 忍辱(にんにく)の教え/毒を食らわない忍耐の教え-仏教の言葉

11-2 増幅と打消しの法則-共振、協調、親和性
① 共振、協調、親和性 ② 神理との共振性、協調性、親和性
 ③ 地獄の最深部・無間地獄からの脱出 ④ 貧しい者・富む者/持てる者・持たない者
 ⑤ 神の心、神の考え方、神の意図に対する積極的な念いを持つということ
 ⑥ 神の波動に対して親和性を持つということ


11-3 創造と破壊の法則-エネルギーの集中と発散
① イメージを創り、理念を定め、意念を集中させる ② 創造は霊界生活のための必須技能
③ 創造訓練の具体的な例 ◆ 創造訓練の具体的な例/解説
 ④ 宇宙の創造へ ◆ 宇宙の創造へ/解説

12.魂は神のエネルギーを中継する機能を持つ


13.終わりに

1.まえがき

 多次元エネルギーの世界、すなわち四次元以降の高次元の世界、高級諸霊の世界、神の世界、そして天国と地獄、あの世、実在界、実相の世界、これらの一連の言葉は少しずつ持つ意味が異なっていても、広義の意味で霊的世界という言葉に集約されます。

 三次元のこの世と四次元以降のあの世は、全く異なる世界だと多くの方々は考えているでしょう。あの世はガスか空気のようなものでできており非常に頼りない世界、この世は物質でできているため、しっかりと物をつかんだり触ったり確認できる世界、簡単に言えばこういうイメージだろうと思います。

 ですから、「この世は仮の世界であり、あの世は実相の世界である」、あるいは「肉体は霊の影である」という事を言葉として知ったとしても、なかなか実感をもって理解できないでしょう。私もかつてはそのようなイメージを持っていました。しかし、この世とあの世の理解が深まるにつれ、先の言葉を実感を持って受けとめられるようになったのです。もちろん、この世とあの世には非常に大きな違いがある事は確かです。

 この世とあの世は分離されているようであり、実はそうでは無いというのが私の考え方です。あの世とこの世の違いを知り、またあの世とこの世に共通する事を知り、その上この世とあの世を統一する、理論的に矛盾のない認識を持つ事が大切です。そして霊界が実在するならば、この世とあの世を貫く次元を越えた科学・物理学も存在するはずですから、霊的世界を科学的に解明しようとする日が必ず到来するはずであると私は考えています。

2.エネルギーと次元   

 私が学んできた事を整理して、霊的世界と三次元この世における違いや共通性について述べてみたいと思います。

① 次元の存在という共通性/連続性1

 三次元この世における全ての物質は、エネルギーによってできています。アインシュタインの特殊相対性理論の中で示されたE = mc2 (E = エネルギー、m = 質量、c = 光速、2は二乗)という式は大変有名です。

 これは、物質は膨大なエネルギーからできあがっている事を示しており、この理論が根拠となって、原子力が実用化されていることを、既に多くの人が知っています。四次元以降の霊的世界はエネルギーの世界、波動の世界であり、霊魂とは不滅の生命エネルギーであると私は言い続けて来ています。従って、三次元のこの世と霊的世界は、エネルギーの在り方が違うのだと言うことができます。

 氷は形を持ち固いのですが、水は形が無く軟らかい、また水蒸気は形が無いだけでなく目に見えず極度に軟らかい事を、誰もが日常の生活の中で知っています。同じ氷にも、雪や、雹などの違いがあります。しかし、水という本質は変わりません。こういう水という物質・分子の熱的エネルギーの在り方によっても、物質は全く異なる性質を持つようになります。氷、水、水蒸気、これらの水の分子の在り方の違いを「次元が異なる」と言い換えることができます。

 同様に、四次元以降の霊的世界は、エネルギーの世界、波動の世界ですから、その波動の周波数の性質によって、様々な次元が存在するようになります。すなわち、この世と霊的世界では三次元と四次元という具合に次元の壁によって遮られていると同じように、霊的世界もまた多くの次元の壁によって遮られ、低次元を高次元が包含するようにして、より高い次元がどこまでも続いている、と言うことができます。

 ですから、三次元この世に住む人間からは四次元のあの世が見えない世界であると感じると同じように、四次元の霊もまた五次元の世界を見えない世界であると感じ、五次元世界の霊もまた六次元の世界を見ることはできません。そして、同じ四次元の中でも、多様性と深さがあり、互いに別の世界を観たり感じたりすることはなかなかできないのです。

 それだけでなく現実には、多くの人はあの世の存在を架空の事として考えています。同様に四次元の住人は、五次元の存在を確信しているかどうか怪しいのです。しかし、六次元以降の住人は神理を積極的に学んでいますから、更に高次元の世界がある事を明確に知っています。それでも、原理的に行くことはできまないのです。

 そういう意味で考えると、この三次元の世界が次元の壁で遮断されているという意味では、霊的世界もまた同じです。そして、この世もあの世も、エネルギーの在り方が違うという点で、全く共通しているのです。


② 次元を越えて貫くエネルギー/連続性2

 更に、そのエネルギーの流れ方に一定の法則があります。このエネルギーとは生命エネルギーであり、神の光、神の愛、というものです。私達の本質は霊ですが、この霊というものの本質も更にあるわけであり、それは神の愛であるエネルギーが凝縮したものであろうと推測できるのです。

 三次元この世に存在する、肉体や鉱物をはじめとするいわゆる「物質」もまた、神の光、神の愛が凝縮したものであろうと思います。すなわち、この大宇宙は神の体の一部であり、銀河は心臓であり、太陽や惑星は血管や神経の分岐点、そして私達は神の体を構成する一つ一つの細胞であるという考え方、喩えができます。

 銀河や、恒星、惑星、そしてそこに生息している様々な生物と人間は、三次元の目には別々の独立したように見えますが、霊的には、脳細胞のシナプス、血管、神経のように網の目のように繋がっているのです。

 その神経を通して、末端の細胞の一つ一つの働きを神は御存知であり、またその血管を通じて私達の一人一人に、神の愛である生命エネルギーが注がれ続けているのです。ですから、遙かなる高次元の世界から、次元を下り続け、末端の一人一人、あるいは雑草の一本一本に至るまで、そのエネルギーは届けられています。

 ただし、地獄には神の光は届きません。届かないようにしているという見方もできますが、本質的には、物理的に届かないのです。何故かというと、地獄霊自らが造りだしている様々な異様な色を持つ分厚い想念の雲が、神の光、神の愛を自ら遮ってしまっているからです。神の体の中にできた異物、ガン細胞のようなものとも言えます。

 私達も生命エネルギーを充分に受けるためには、心の曇りを少しでも晴らさなくてはなりません。そうでないと、霊としての働きが衰え、神の光が届かない部分の肉体に異変が現れてきます。癌はその典型的な例です。

 よく気の流れとか言いますが、正に神の光、神の愛、生命エネルギーの流れを良くすることが大切です。神の光は次元の壁を次々と通過しつつ、この三次元世界まで降り注いでいます。霊魂とは、神の光の中継地点のようなものであり、惑星意識を通じて、地球の高級諸霊に光が届き、その光は様々な色に分光(個性化)されながら、下の次元へと流れていき、そして霊魂の中核である私達の心に届けられています。

 霊魂とは神の光を中継する役割を持っているのです。ですから、神の光を自分の所で止めるのではなく、また別の形で人から人へと流していくべきものであるのです。それを、愛という言葉で私達は知っているはずです。神から無償で頂いてる愛ですから、私達の愛もまた無償であるべきなのです。愛が愛であり続けるためには、流れ、受け継がれていくことが大切です。止まったときに、愛は死ぬと言いいます。そよ風がそよ風であり続けるためには、止まってはならないように。

私達の肉体の成分は水が主体です。そして、お母さんの胎内である羊水の中で十月十日過ごしてこの世に生まれてきます。ですから、人間の肉体は水が無ければ生きてはいけません。同様に人間の霊魂、そしてその中核である心は神の光が凝縮することによってできており、また高次元から放射されている神の光の中継点でもあります。私達の霊魂・心は神の光・神の愛無くしては生きていけないのです。

 次元の壁を貫いて流れるもの、それは神の光であり、愛であるのです。私達は、愛の流れ、愛の大河の中で活かされているのです。 

3.天と地は次元の境界/縦の不連続性   

 私達は「天」の下、「地」の上に生活しています。生まれたときから死ぬまでおそらく天と地を見ないことはないでしょう。私達にとって天と地は一つの境界であり、科学が発達した現代では、その天と地をホンの少しだけ突破することができるようになりましたが、依然として意識の中において、天と地は大きな境界であり、限界を意味していることに変わりはありません。

 同様に、四次元以降の天国と地獄には無数の「天と地」があるという話をしたいと思います。

① 天国と地獄はどこにあるか

 地球霊団の人口は約500億だそうですが、それがこの地球という空間のどこにあるのか、あの世の実在を信じるならば、なかなか興味があるテーマです。

 実在界(霊的世界)は、私達が住んでいるこの三次元空間を包含しつつ、重なるように存在しています。私達人間が普通に活動している空間は地表が大部分であり、飛行機で移動するといっても地表から10km程度の所を飛ぶわけですから、地球儀のレベルで見ると地球の表面にへばり付くように生活しているわけです。

 一方、大部分の霊人達は、もっと遙かに立体的空間に広がっています。地獄と天国は実在界を二分する大きな領域と考えている人が居ると思いますが、そうではありません。地獄の人口は約50億ぐらいだと聞いた覚えがありますが、霊人口全体の約一割です。また、地獄霊は魂の自由度が全くありませんから、空間的には霊的世界・あの世の世界のごく一部、非常に狭い領域と考えていもよいと思います。

 地獄界には、神の光、生命エネルギーが届きません。暗く寒い世界です。下層に行くに従い、闇は一層深く、最深部の無間地獄は漆黒の闇であり、地獄霊の心の目では全く見えない世界です。地獄はこの地表を境にして、地下深く、複雑に広がっています。地表に住む現代人の多くは、地獄的な想念に満ちていますから、地獄霊が暗躍しやすい世界なのです。

 地表とほぼ同じ領域に天国と地獄の中間領域があり、精霊界と言います。この地表とほとんど同じ世界が、霊的世界として存在しています。では、天国という領域はどこにあるかと言えば、空間的には地表を見下ろせるぐらいの空中、よく雲の上などと言いますが、正にそんな感じであろうと思います。

 しかし、天国と一口に言っても膨大な領域です。複雑で階層的であり、高次元ほど地球の地表から高い空間へと広がっています。地球を見下ろせるところに来ると、大地(後述するが天国の大地の事)がテラス状に幾重にも連なっている、と「死後世界地図」や「ベールの彼方の生活」に記述があります。

 月面着陸に成功したアポロ宇宙飛行士が、地球を眼下に見て、地表からかなりの高度のある領域を通過する際に、光るものを沢山見た、と証言しています。おそらくは、可視光線ではなく、霊的な光を感じたのであろうと思います。

 高次元に行くほど、地表から離れていきます。一つには、地表に渦巻く悪想念の雲を避け、またその想念エネルギーの放射の届かない空間領域に広がっている、と考えるのは合理的だと思います。

 地球が地球儀のように見えるとするならば、地球上空数万キロメートル、宇宙空間と言っても良いような領域に九次元世界はあると、ある霊言書に記述があったことを記憶しています。九次元の大指導霊は、地球霊団の最高指導者ですから、地球儀を見るように地球を見下ろすようにして、日夜、霊団の進化・科学文明の在り方などを探究しているのであろうと思います。私の地球統治の神のイメージは正にこの様です。

② 無数に存在する天と地

 ヨハネの黙示録に「天と地(heaven and earth)」という言葉が何度も出てきます。

 ヨハネはローマ帝国の役人に捕らわれ、地中海のパトモスという島の奥深い牢獄に繋がれていましたが、ある時全身に光を放って一心に祈っていたところ、イエスキリストに導かれて幽体離脱し、その魂は天上界へ昇りました。そこで、2000年後の人類の未来を見せられ、その内容を記述して後世に遺すように神に命じられたのです。それが、新約聖書の最終段に編集された『ヨハネの黙示録』と呼ばれるものです。

 その物語の随所に、「天から声が響き渡り」、「地が消え去り」、「天から星が流れ」、「地の上、地の下」という表現があります。また、大神霊地球意識を表す「地が助けた」というような表現もあります。

 黙示録にある「heaven」とは「天」を意味し、「earth」とは「地」意味するのですが、これは地上で私達が見ている天と地、空と大地の意味ではありません。ここで言う「天と地」は、次元の境界であり、天は上の次元世界との境界、地は下の次元世界の境界のことです。

 この世(物質世界)も、あの世(霊的世界)も、全て一切がエネルギーが姿を変えたものによってできあがっています。そのエネルギーの在り方の違いが、大きな区分である次元を造っているという話をしてきました。エネルギーとは波動であり周波数性を持ちます。ですから、周波数の違いによって幾らでも細かい境界ができるのです。

 ですから、同じ四次元であると一口に言っても、地獄の最深部からこの地上とほぼ同じ精霊界まで無数の「天と地」が存在しています。これを周波数の違いと言えばそうなのですが、もっと分かりやすく言うと、地獄を縦に区分している細かい次元は、その住人の持つ精神性の違い、その強度の違いを意味しています。

 精神性の違いとは、神の心、神の念い、神の願い、神の愛、こういうものを尺度として図ったときの違いを言います。すなわち、神の光の方向へ向かってその魂を並べたとき、最も遠い所が地獄の最深部・無間地獄というわけです。無数の天と地があるのに、何故、四次元世界と称するのか、四次元と五次元の違いは何か、これについては本題を外れますので、別のテーマとして考えてみたいと思います。 

4.多様性の境界-横の不連続    

 三次元この世と四次元以降の霊的世界(実在界)は、物質とエネルギーという次元の壁によって遮られ、エネルギーの世界である霊的世界もまた、エネルギーが持つ周波数性から、無数の次元の壁が存在し、低次元を高次元が包含するようにして、原理的には無限に続いていく、という話をしてきました。


 三次元のこの地球表面に生息する人類は、様々な地域で、数百の民族がそれぞれの言語と文化を持って日々の営みを続けています。共産圏が崩壊して、沢山の国があることに気づかされ、同じ中国やロシアという国であっても、多数民族の集合体であることを知らされました。この三次元人間社会は、このように非常に多くの多様性を持つことで成り立っているのです。


 あの世には空気を媒体とする振動、いわゆる言葉は存在しません。しかし、霊魂の中核である心の活動によって、さざ波のように念い(おもい)というエネルギーが放射されています。この念いというエネルギーは、地上の言語とは違い、前世がどの国に生まれていようと、誰であっても、たちどころに周囲に理解されるという性質があります。


 互いに黙っていても心が通じ合うというのは、ある意味で恐ろしい事だと思いませんか。心の中で思ったことが、たちどころに周囲に知れるとしたら、これを恐ろしい事として思わない人は、おそらく地上では極めて少ないだろうと思います。しかし、これは霊界における大原理です。


 それ故、心の傾向性が一定の範囲で等しい人たち、つまり似たもの同士、気の合う者同士が自然と集団となっていくのです。また少しでも邪悪な心が残っている間は、決して天国へと昇ることはできません。それは、コップの中の泥水が、やがて透明な上澄み液と泥と分かれていくように、純粋に物理的な現象なのです。


 波長を持つということから次元構造が創られていき、そして心の動きが瞬時に周囲に知れるという事から、個性の様々な違いによって、多様な棲み分けが無数に創られていきます。横の棲み分けを、一つの都市、あるいは町、村といった形に例えるならば、互いに移動することはできるでしょう。


 最初は世界中を旅している人でも、やがて自分にとって住みやすい町、あるいはこんな町に、こんな人々と住みたい、そういう願望があり、次第に定住するようになるのと同じだと言えます。また、心境の変化によって、次元を昇る場合、また希に下る場合もあり、そして別の村や町に移り住む事もあるでしょう。


 四次元精霊界や五次元善人界、更に高次元まで、地上の国家や民族あるいは地域ごとに、霊域が広がっています。日本には日本としての霊界があり、合衆国には合衆国としての霊界がある、あるいは東南アジア諸国にはその霊界があるということです。


 更に、現代は、世界各地へ自由に旅行できる時代ですから、そういう経験のある人は、外国の霊界へ移り住むのは容易だと思います。そして、地域ごとにその霊域を育み、秩序を維持する組織があり、その地域ごとの神々(指導霊)がいます。日本では、天照大御神、天御中主神を最高指導霊として、諸天善神が日本という国を育んできました。


 高次元に行くほど、地上における国家や民族という霊域の垣根が薄くなっていき、外国人と交わって生活するようになると考えられます。次元が低いほど、前世に住んでいた地域に相当する霊域にまず落ち着きます。いずれにしても、霊人の意識が日本という生活習慣に執着したままだと、死後も日本人として生活するということになります。


 地上における外国人が相手の場合、どちらかが相手の言語を知らないと、互いの意志を理解するのは容易ではありません。一方霊界では、念いで意志が通じますから、次元が等しいならば、本来はどんな霊域に住むことも可能であると言えます。しかし、地上における生活習慣の延長として、同じ次元であっても無数の霊域があり、その中に都市や町や村が広がっているのです。


 従って、この地球の地上、すなわち三次元この世と地獄を最下層として、タマネギの皮が無数に取り巻いているように天と地があり、それぞれの皮の表面に無数の霊界が広がっている、というイメージができあがります。そして、九次元世界は地球統治の神々(大指導霊)が住まう最高次元ですが、そこから宇宙へと、更なる高次元の世界へと繋がっているのです。 

5.霊的世界(実在界)にも
      その次元に相当する物質》がある    

 死後の世界、あの世にも物質があるというと、「えっ、どういう事」と思われる方が多いと思います。各次元に、《その次元の物質》があり、触ってつかむことができるという説明をしようと思います。もちろん地上の物質と異なります。しかし、その次元におけるエネルギーの在り方として、相対的に、全く同じ事であると私は考えています。

 もし霊界に物や形そして色が無かったら、霊人の姿も形も無いことになり、全員が見えないクラゲのような存在になります。霊と神が実在するならば、霊界がそのような存在であるはずがないのです。

① 宗教は最先端の科学

 実在界、霊的世界、天国と地獄はエネルギーの世界だと言い続けてきました。ただそれだけの理解だと、この三次元物質世界の人間として、まるでおとぎ話、雲をつかむような話、見えない空気のような世界としてしか、想像ができません。

 ようするに、幾ら神を信じ、幾らあの世の世界を信じると御本人が思っていても、それは観念的であり、ほとんど現実感は無いだろうと思います。そうではなく、実在を信じるのであれば尚のこと、実在界、霊的世界を現実感をもって感じ取る事ができる努力が大切であると思います。そのためには、霊道を開くことよりも、科学的、論理的な理解が大切なのです。

 宗教というものを観念的に理解している方が多いのではないかと思いますが、私は《宗教は最先端の科学である》と理解しています。この世における科学の世界、現実の世界の中にも見えない世界は幾らでもあります。この世の見えない対象を実在するとして信じていると同様に、対象を科学的・論理的に理解することで、天国と地獄そして神の実在を、現実感を伴いつつ信じることができるようになります。

 霊的世界(実在界)にも《その次元に相当する物質がある》という理解を深めるためには、この《宗教は科学》であるという前提に対する理解がまず大切です。

 『宗教は科学である』 序文   本文  を参照してください。


② 物質とは相対的なもの  

 物質は固いもの、固まったもの、と誰もが思いこんでいますが、それは絶対的なものではなく、あくまで相対的なものなのです。炭酸ガスや水蒸気は見えないガスですが、これも立派な粒子であり、物質です。見えない水蒸気が凍ると氷という固いものになり、炭酸ガスが凍るとドライアイスになります。

 私達が暮らしているこの地面は、大地震の時、海の波のように、上下と進行方向に波打つことが知られています。この地球の中心付近は約6,000℃で、時々マグマが地表に出てくるように、実はおまんじゅうのように軟らかいものです。

 物質というものは、エネルギーが凝縮し固定されたものです。その物質も、温度や圧力によって、ガスになったり、液体になったり、固体になります。同じ物質であるのに、見えないものから見えるものへ変わり、更に軟らかいものから固いものに変わります。つまり、エネルギーの状態によってそのような変化が生まれます。

 物理学的には物質であっても、私達の生活実感としては、一般的に「見えない希薄なガス」までも「物質」と認識していない事に気づきます。すなわち、私達が概念的に把握している物質とは、あくまで感覚的に、すなわち肉体の一部が触れたり、また色や形として認識できる、いわゆる肉体の感覚器官を通して感じることができる事で、物質と認識している事が分かります。

 結論を言うと、肉体《感覚器官という物質》を通して、《物質》を認識しているわけであり、軟らかいか固いか、という感覚はあくまで相対的なものだということです。例えば指先の皮膚の柔らかさが基準であり、それより固いものを石や金属と言ってみたり、それより軟らかいものを豆腐やプリンと言っているのです。

 私は科学者ではありませんので正確な定義は知りませんが、物理学的に物質とは《質量を持つ事》と定義されるのではないかと思います。重さがあるといっても良いでしょう。では何故、質量が存在し、重さが生じるのか、そしてそれがエネルギーになると何故、質量がなくなり重さがなくなるのか、こういう本質的な事について物理学は何も説明していません。

 物質が消滅するとエネルギーに変換され、エネルギーは物質に変換されることは既に物理学的常識になっていますが、釈迦は《色即是空、空即是色》という言葉で、正にエネルギーと物質の輪廻転生がこの多次元宇宙の本質であることを教えているのです。

 そのエネルギーとは何か、どういう性質があるのかという点について、現代の物理学は未だに何も説明できないでいます。重力や電流と磁界、磁力などについても本質的なことが分かっておりません。

 エネルギーについて研究することは、科学の最先端のテーマすなわち未来科学であり、それは霊界の科学でもあるのです。霊界とは多次元宇宙全体を指す言葉であり、三次元この世はその最下層に包含されているという認識が大切です。

 以上のことを確認した上で、霊界を構成している《エネルギー状態の違い》について考察を進めていこうと思います。

③ 霊界の物質とは何か

 この地上において、私達が感覚的に知ってる物質とは、自らの感覚が基準であり、エネルギーの様々な状態を相対的に感じ取ったものであることが分かりました。エネルギーの世界、霊的世界の住人となったとき、自分のエネルギー状態と、周囲のエネルギー状態に違いがあるから、自と他という区別が生じるわけです。では、そのエネルギーの状態が異なるということについて考えてみたいと思います。

 実相の世界、霊界における風景はいかなるものでしょうか。様々な霊言書において、一つの例外もなく、あの世の山河、霊人の姿や形、様々な動植物についての記述があります。また地上にあるような様々な生活用品や食品、飲み物なども、その次元で必要であれば、何でも豊富に存在し、かつ幾らでも創り出すことができます。信じられないことかも知れませんが、ドライブを楽しむことも、ハイヒールを履くことも、ファッションに凝ることも事も可能です。

 霊的能力に覚醒すれば、空中を飛んだり、物を素通しに抜けたりできるとありますが、一方では物をつかんだり触ったり、食物を食べたりお酒やコーヒーを飲んだりもできるとあります。触感、味、臭いも感じることができるのです。ただ、地上のものとは若干違う事も確かなようです。

 本来、霊とは姿・形の無いエネルギーであると言ってきましたが、霊界の物質と霊界の様々な在り方をどのように説明できるのか、この点を考えてみましょう。

 地上における同じ物質でも、その状態によって、気体、液体、固体になる事を私達は知っています。気体は、融通無碍であり、姿も形もありません。しかし、ある温度や圧力の下では、液体になり、また固体になります。姿や形がなく、見えない存在である気体が、見えて、触れる存在に変化します。

 地上の物質が、気体、液体、固体に変化するのは、温度と圧力に関係するわけですが、温度とは分子・原子の振動エネルギーに関係するものであり、圧力は分子・原子同士の距離、別の言葉では密度というものに関係しています。従って、絶対零度とは原子の振動エネルギーがゼロの状態を言うわけです。しかし、温度の下限はあっても上限は無いようです。

 そういうことから類推して考えると、どうやら同じ種類のエネルギーであっても、その活動状態によって、その次元で見えたり触ったりすることができる、すなわち《その次元の物質・霊界の物質》へと変化するのではないかと私は考えています。

 霊界の科学というものが、おそらく霊界にあると思います。それはエネルギーの状態変化と言うべきものであり、高次元の霊界科学の専門家は、エネルギーの状態変化を自在に操り、様々な《霊界の物質》を創り出すことができるのでしょう。

 天と地を創り、山河を創り、動植物を創り、建造物を造り、様々な発明や芸術があり、地上にある全てのものが存在し、かつ地上には無いものが沢山あるのです。霊界の《天と地》を創るには膨大なエネルギーを必要とするでしょうから、おそらく最高次元の大指導霊(地球の神)が創造されたと理解しています。

 霊界の霊人は、自らの姿形も、その心の状態によって自然と変化していくわけですが、それは別の誰かがそうしているのではありません。自らの心の状態とは、心のエネルギーの変化の事ですから、前述したようにやはり、エネルギーの状態変化が自らの霊体の中で自然と生じているという事になります。

 HP「七つの封印」における神理の書籍コーナーで紹介した「ベールの彼方の生活」の中に、天界での創造に関する記述がありますので、参考になります。「11-3 創造と破壊の法則-エネルギーの集中と発散」で詳述します。

 しかし、霊界の様々な姿や形を有するものも、高次元の神が霊眼で観るとき、すなわち心の目で見るとき、全ては光であり、エネルギーの粒であることが分かるのだろうと思います。姿形は《影》のように観え、全ての本質は光として見えるのでしょう。また自在に見方を変えることができるので、光として観ることも、物や形、色として観ることもできるのであろうと思います。

 この地上を神が観るとき、やはり同じであろうと思います。《肉体は霊の影》として見えるのです。魂を光として認識するとき、肉体は影のようにしか見えないという事です。高次元の神にはそう見えるということであり、地上の物質も、四次元以降の物質も、全てはエネルギーであり、光の粒の集まりであるという、そのような理解が必要です。

 この地上も、四次元以降の高次元世界も、姿と形があり、また色があるもの全ては本質ではなく、実は神のエネルギー、神の光が本質なのです。

6.霊的世界(実在界)にも《幽霊》が存在する  

 この地上世界では、様々な地域と国で、幽霊に関する話が言い伝えられています。地縛霊などが強力な念を持っていると、ごく普通の人が、その霊人を幽霊として実際に観ることがあるのです。霊視できる人が墓場に行くと、沢山の人がお墓に住んでいると言います。

 お通夜の時など、棺桶の中に安置された死人の中へ、入っり出たりしている魂が、俺は死んでない、生きている、何とかみんなに知らせたい、と強い念を発すると、棺桶がガタガタと音を立てることもあるでしょう。死んだ同じ時間に、遠く離れた親しい人の夢枕に立ったり、一陣の風が吹いたり、ろうそくの火が消えたり、そういうことも事実だと思います。

 以上は、地上で肉体人間が霊を観る事があるという話ですが、これと似たようなことが霊的世界(実在界)でも起こるのです。霊とは、本来姿形なきエネルギーであり、それ故にエネルギーが持つ波動の性質によって、霊界における次元の違いや、多様性が発生すると言ってきました。

 波動の原理によって、高次元の霊人は低次元世界へ行くことが可能です。高次元の霊人ほど、霊的な覚醒が進んでいます。すなわち霊能力が高いわけであり、自分のエネルギーをコントロールすることが自在です。

 ですから、高次元の霊人が低次元の霊人にメッセージを送ったり、会いに行くことが可能です。死んである程度時間が経過した人は、地上の垢を落とし、反省が進み、心の浄化が進みますので、霊的覚醒と霊能力が向上していきます。従って例えば、地上において先に死んだ親が、後に死んだ息子に会いに行くような事があり得るのです。

 息子は、姿は見えずとも懐かしい父や母の声を聞いたり、会話するという事になります。息子の霊的覚醒と心の浄化がが進むと、その姿が次第に明確に見えるようになっていきます。また死後に、自分の守護霊や指導霊からもいろいろな形で指導を受けますが、死んだ直後は心の浄化と霊的覚醒が進んでいないのが通例ですから、守護霊や指導霊の姿を直接見ることはできない場合が多いのです。

 しかし、守護霊や指導霊がエネルギーを落とし、姿を変えて、守護霊という立場も相手に明かさずに、指導を続けることがあります。時々、目の前に姿を現すこともあると思います。最初は、眩しくてまともに観ることができないかも知れません。また、親切に道を教えてくれた霊人が、姿を変えた守護霊であったりすることでしょう。

 ホンの少し異なる波長の場合、相手を見ることはできないが声は聞こえる、あるいはぼんやりと見える、ということになるわけであり、地上の幽霊とは異なり、死後、これは誰でも経験する日常茶飯事の現象であると私は思います。

 以上は波動の原理から来る現象ですから、どの次元でも同じです。「死後の世界地図」という霊界通信には、そのような話が具体的に記されていますので、是非とも参考にして下さい。 

7.霊界を実在界と呼び、
    地上三次元物質世界を仮の世界と呼ぶ理由  

 色々な見方、言い方ができるでしょう。幾つかを列挙してみましょう。

① 生活時間の永さの違い

 輪廻転生における《一つの人生》を考えたとき、この世における人生は永くて100年ぐらいであり、霊界における人生・生活時間の方が遙かに永いという事実があります。

 普通の人の場合、輪廻転生の法則に従い、霊界で200~300年生活すると再び地上に生まれてきます。仏教でいう菩薩界(七次元)ならば約500年、如来界(八次元)以上ならば更に永く数千年、数万年という具合になっていき、次元が高くなると定期的に転生するのではなく、大きな計画のために地上に出てくるようです。

 輪廻転生は、魂の進化・成長発展のために地球の神が定めたシステムであり、魂の発展段階に応じて変わってきます。幼稚園から高校・大学ぐらいまでが、成長過程の教育期間とすれば、それが輪廻転生の中核を占めると考えると良いと思います。

 例外的な例としては、非常に幼い魂の場合、輪廻転生の経験が全くありませんから、肉体を持って空気を吸う、呼吸をするということ自体が大きな学びとなります。そのような場合、余り文明国に生まれるということはなく、生まれてもすぐに死ぬケースが多いようです。その代わり、死んですぐにまた生まれ変わるらしいのです。そうやって、肉体を持つための訓練のために《生まれる経験》を重ねている場合もあるということです。

 一方、地獄に堕ちた場合、地獄から生まれ変わることはできませんから、地獄霊はとにかく地獄から脱出しなくてはなりません。地獄から脱出の期間、そして天国で一定の修行を重ねる期間、当然のこととして生まれ変わるまで、霊として生きる年月が長くなります。脱出できなければ、何千年、何万年、何億年と永遠に地上で肉体を持つことはありません。これは、地球の神が定めたシステムなのですから、例外はありません。

② 生まれ変わりの役所があり、過去の記憶が封印される

 輪廻転生・生まれ変わりのシステムとして、地上に生まれる際、過去の一切の記憶が封印されます。これは、神と称される九次元大指導霊の魂が地上に生まれる際も全く同じであり(九次元エネルギー全体のごく一部が肉体を持つ)、ゼロからのスタートとなります。

 一方、霊界においては、次元が高くなるほど(魂が成長するほど)遠い過去における生まれ変わりの記憶があります。次元が低い(幼い魂)ほど、過去の生まれ変わりの記憶が少なくなっていきます。通常では、前世、前々世ぐらいまで、ある程度思い出せるようです。

 地上に生まれる際に記憶を封印してしまうのは、輪廻転生のシステムとしてそう定められているのであり、地球の神が創設したのです。原理としては、過去の記憶を持ったまま、生まれることも充分に可能であるはずです。

 しかし、地上の人生を切っ掛けとして魂の進化発展を効果的に達成するためには、ゼロからのスタートが大変重要な事なのです。このあたりについては、また別のテーマとして取り上げてみたいと思います。

 従って、霊魂の意識として、霊界と地上ではどちらが覚醒しているかと言えば、当然のことですが、霊界という事になります。また輪廻転生のシステムを管理しているのは、あの世の然るべき役所・管理機関であるのです。

 私達は《生まれ変わりの申請書》を提出し、時代、国、地域、環境、父と母を選定し、そして学習の目的《神との契約》を定めています。そして、認可を受けて、この地上へ《送り出されてきている》のです。一人で勝手に生まれ変わることはできません。

 ですから、人間すなわち霊魂の住む世界として《どちらが本拠地》かと言えば、霊界が本来の住むべき世界であることは明らかです。私達の故郷は《あの世》という霊界にあるのです。

③ 霊界から地上を観ることができるが、こちらから霊界は見えない

 霊界から地上を観る事は可能ですが、地上から霊界を観ることはできません。ですから、地上の人間は、金魚鉢の中の金魚か、水槽の中の熱帯魚みたいなもので、霊界から観察される立場にあります。劇場の舞台を地上世界に例えることができ、人間は皆ドラマの何かの役を演じているのであり、大勢の観客が見ているということに気がつきません。

 ドラマが終わると(死ぬと)、舞台裏に帰り(あの世に帰り)、先ほどの演技は(人生は)こういうところが良かったとか、あれを失敗したとか、などの批評を受け、自分でも反省することになります。反省できない人は、心の病院(地獄)へ行くことになります。

 ですから、舞台裏へ帰ると、ビデオテープかCDを観ながら、人生全体を見渡すことを求められるのです。そういうわけで、あの世が《実の世界》であり、この世の人生は一時の《仮の世界》であるのは明白です。

 ただし、地獄霊や霊的覚醒の進んでいない霊人は、今住んでいるところが霊界であるという意識がありませんから、地上を観察するという発想そのものが湧いてきません。またその能力が無いと言っても良いかもしれません。

④ この世は諸行無常/あの世は基本的に変化しない

 《諸行無常》という言葉を聞いたことがあると思います。諸行とはこの世の万物一切という意味であり、無常とは常(つね)ではない、すなわち変化し続けるという意味です。つまり、この世の森羅万象は《生成・誕生→繁栄・成長→衰退・老化→消滅・死》という具合に、一時も同じ状態ではなく、変化し続け、やがて消滅するという意味です。昨日の貴方の肉体と今日の貴方の肉体は同じではないのです。

 では誕生とは、どこから誕生し、消滅とはどこへ消滅するのか、というという疑問に到達するわけですが、それは前述した《色即是空・空即是色》という言葉で説明することになります。しかし、本題から外れますので、ここでは触れません。

 この世における万物は《自動的に変化》し続けて、やがて消滅していきす。その《自動的変化》という現象から《時間》という概念が発生している事に気がつくでしょう。ということは、この世の全ての物質の中に、自動的に変化するための《何かが埋め込まれている》わけであり、ここに多次元宇宙の創造神による意図が読み取れます。

 では霊界、すなわち霊人や《あの世の物質》はどうなのかといえば、自然と(原因も無く)変化するということはありません。つまり、風化するということがないのです。しかし、霊人の意識が向上したり、希に退化すれば、それは姿形に反映されていきます。

 意図的に霊界の創造と破壊をしない限り、何百年、何千年、何億年でも変化しない世界です。ですから、霊人の意識が変化しない限り、江戸時代に死んだ人は、その時の生活スタイルのまま、江戸時代という《空間と時間》の中で生きることになります。概念としての時間は、霊人の意識の高低や変化、認識力によって異なる、すなわち相対的なものということになります。

 色々なことに興味がある人、地上生活スタイルの変化に興味がある人は、地上の時代変化に合わせて、自分の生活スタイルを変えていくことは充分に可能です。霊人の意識次第なのです。ですから、数百年前に死んだ霊人であっても、現代の地上の便利な生活を楽しむことが可能だということです。

 ドライブを楽しんだり、ファッションを楽しんだり、ショッピングを楽しんだり、お友達とおしゃべりをしたり、CDを聞いたり、DVDの映画を見たり、読書をしたり・・・・地上にある全てのものが天界にはあるということです。

 変化するのか変化しないのか、それは意識の差なのです。霊界では、念いが創造と破壊、変化を創り出します。地上の私達が心に念う時、それは創造と破壊を伴う力を持っているということを忘れてはならないのです。

 地上では、念いが実現するまで時間が掛かったり、物質世界としての障害があったりしますから、念いが創造するということについての確かな認識はありません。しかし、人間が死んであの世に行くと、まず死んだことの認識を持ち、霊であるという認識を獲得し、次に霊としての能力向上・成長に関する様々な原理を学んでいきます。念いによって創造と破壊を行うということを実地で学ぶのです。

 ですから、内向的になり、何も信じたくない、信じられない、考えることもしなくなった人が突然死んだとき、霊的仮死状態にならざるを得ません。意識が無い状態、眠ったままだということです。何年でも、何百年でもそれが可能な世界であり、そういう人にとっては時間は停止している、または無の状態ということです。

 この世では、万人が同じ時間という尺度を持っていますが、あの世では霊人の意識によって皆、時間の単位が異なります。ですから、江戸時代の時間の中に生きている人と、現代の時間の中に生きている人が、同じ空間・次元世界で会ったり握手することが可能な世界です。

⑤ 実在界はエネルギーが本質

 霊界を実在界と呼び、地上三次元物質世界を仮の世界と呼ぶ理由として、

① 生活時間の永さの違い
② 過去の記憶が封印される
③ 霊界から地上を観ることができるが、こちらからは霊界は見えない
④ この世は諸行無常/あの世は基本的に変化しない

という具合に考えてきました。《あの世の物質》の話もしましたが、それはエネルギーの状態変化という意味の物質であり、あの世はエネルギーの世界、波動の世界である事に変わりありません。しかし、この世の物質もまたエネルギーが変移したものですから、広義の意味では、この世もあの世もエネルギーの世界であると言うことができます。

 何故、あの世を実在界と称するのか理解されたでしょうか。現実感をもって受けとめるのは難しいかも知れません。この世は仮の世界であり、霊的な覚醒が難しい世界ですが、以上の事をしっかりと理解していくと、この世も現実、あの世も実は現実であり、人間はこの世とあの世を生き通しで生きている存在である、という認識が次第にできるようになっていきます。

 この認識が確かになればなるほど、お金や物質に捕らわれたり、それが原因で争いになる愚かさを事前に回避し、より精神的な事に注意力が働くようになっていくと思います。しかし、お金や物質はこの世に生きる限り大切なものです。

 これを汚らわしいことと考えたり、大金を身っていることに罪悪感を感じたりする人は、やはりお金や物質に別の意味でとらわれていることになります。ですから、お金や物質に執着し、物質的な事柄に大きな価値観を持っている人に接したとしても、それを許容し・抱擁できる自分であることが大切です。

 霊界と現世の本質を知ることで、真なる幸福の追求は、この世とあの世を貫く、そういうもので無くてはならないことに気がつくでしょう。そして、この三次元世界の人生をより豊かに実りあるものにしたいと思うようになっていくはずです。

 仮の世である現世をどのように生きるかによって、実在界へと帰ったときに更なる成長があり、また来世(次の転生)も更に進化発展していくという生き方ができるのです。この世で、心の傾向性を修正しつつ、更に良い種をまくことが大切です。

 では次に、この地上界の本質についてもっと深く考えてみましょう。

8.三次元物質世界、この世の存在意義  

 高次元から低次元、更に地獄界まで含めた霊的世界全体を実在界と呼ぶわけですが、では何のためにこの世、物質界、人間界を神が創造し、また存在するのか、過去の記憶を封印してまでこの地上で学ばなくてはならないのか、霊界だけでは駄目なのか、こういう点について考えてみましょう。

① 肉体が持つ本質的意義

 皆様は肉体を持つという《真の意義》について考えたことがあるでしょうか。

 人間は、幽体という下着を着て、その上に分厚い潜水服のような衣服を着用しているようなものです。肉体の内蔵諸器官、無数の様々な組織、それらは本来皆独立した生命体です。死後ある一定の期間、肉体を構成する独立した生命体の霊組織である幽体を魂は着ていますが、やがて幽体は崩壊してしまい、本来の霊魂となります。言い換えれば、幽体とは肉体の生命維持装置のようなものと理解すればいいのではないかと思います。

 受精して後、しばらくは受精卵が分裂をくり返して諸器官の原型を造っていき、幼児の形状に育った肉塊は、人間の魂を受け入れる準備をします。視覚的に例えれば、繭(まゆ)のようなカプセルに入った人間の霊魂が、受精後3ヶ月になる頃の幼児の胎内に天上界から注入されます。母胎に別の霊が入るわけですから、母親である霊との調和に変調をきたし、つわりが始まります。

 しばらくは過去の記憶があるようですが、十月十日の後、拳を握りしめて産道を通り、この世の空気を吸って第一声を上げた時を境に、大方の記憶が無くなっていくようです。赤子が何もないのに笑っているような時は、この世に無事誕生したことを守護霊が祝福している場面であると聞いています。また母胎の中にいるとき、母親または霊能者と対話ができるという話も聞いたことがあります。

 成長するに従い、潜在意識の中へ過去の記憶は完全に埋没していきます。肉体の中に霊が宿るわけですが、単にそれだけならば出たり入ったりという、また別の霊魂と入れ替わったり、面倒な問題が生じますが、幼児から母体内で肉体と霊魂が同時に成長し、その肉体はその霊魂にぴったりとした《専用の乗り船》となり、堅固な霊糸線によって霊魂は肉体と結ばれます。

 しかし基本的に、母親の霊魂と著しく異ならない範囲で、色々な次元、また多様な性格の魂が母親の胎内の幼児に宿ることができるわけですから、本質的に肉体は憑依体質であると言えます。ですから、その肉体の宿り主である霊と心の波動が近い悪霊は、宿り主の波動に引き寄せられ、容易に頭や、腰や、足に憑依することができるのです。

 睡眠中の霊魂は幽体離脱し、霊界に輝く霊太陽のエネルギー(生命エネルギー)を吸収して、再び肉体に戻ります。この時、数億という霊魂が肉体から離れて、同時に霊界をさ迷うわけですが、間違いなく自分の肉体に戻してくれるのは、前述した霊糸線によって魂と肉体が堅固に結ばれているからです。

 この霊糸線は、如何なる者も切断することはできません。また不思議なことに他の霊糸線ともつれることもありません。しかし、肉体の滅び、すなわち死によって霊糸線が切れます。霊糸線が切れたときが真の死であり、《死の定義》となります。

 幽体離脱を万人がほぼ毎日行っていますが、不完全ながら肉体から魂がずれる経験をすることができます。アルコールによって泥酔したり、麻薬を服用することで、この世という空間と重なっている霊界、すなわち異次元の世界と、多くは悪霊達を垣間見ることがあります。肉体と幽体の結合がゆるみ、ずれるために起きる現象でしょうか。霊としての本来の目、霊眼が、眼球と脳組織という肉体の諸器官から離れ、霊界を直接見るからだと思います。

 また金縛りという現象を経験した人も多いでしょう。意識が明瞭でも体を動かせないで大いに焦るわけですが、肉体組織と幽体がずれかかったとき、魂からの信号が脳組織にうまく伝わらない、あるいは肉体の神経組織を信号が伝わらず、筋肉を全く動かせない、そういう現象であると私は理解しています。

 肉体には、あらゆる次元と多様性の霊魂が宿れる、これが最大の特徴です。この事によって、この三次元物質世界は、実在界にはあり得ない特殊な世界となり、また非常に有意義な世界となるのです。私達が魂修行をするための大切な次元なのです。

 同時に、悪霊の憑依という現象も起きるわけで、ほぼ例外なく誰でも日常的に無意識の内に経験しています。ですから、自らの心の状態を日常的に《監視する心》が大切なのです。

② あらゆる次元、多様な魂が同じ空間で生活する 

 三次元物質世界の特徴として、肉体という厚手の服を着るわけですが、この事により、あらゆる次元の、また多様な魂同士が、全く同じ空間、同じ地域、国、社会、職場で、あるいは家族として、親子として生活ができるようになります。

 地上に生まれる前は全く違いました。心が持つ波動の似たもの同士が、同じ地域、同じ次元に住むことができるのであり、原則として他の地域や次元を越えて行くことはできません。高次元から低次元へ、ある使命を持ち仕事として降りていくことはあります。しかし、低次元から高次元へ昇る事は原理としてできないのです。また、同じ次元でも、波動の異なる(波動の組合せ・波形)世界・地域(心の傾向性、趣味、価値観)に住むことは、違和感を感じ、心地よくないため永く住むことはできません。

 地上を去り霊界に昇った当初は、地上と打って変わって見る物、聞く物、触る物、全てが新鮮であり、また周囲の仲間とも調和し、楽しい毎日が続きます。もちろん、喜怒哀楽という感情があります。それは、自と他を区別する競争ではなく、また勝者と敗者を産むのではなく、調和された中に切磋琢磨があり、霊としての向上心が強くあるからです。

 生きるための、食事、住居、仕事、子育て、睡眠などが原則としてありません。天候も穏やかで、動植物も色鮮やか、空気も澄み、快適そのもの、それが天国です。こういう世界で、長い期間生活していると、だんだんそれが当たり前になっていき、かつて地上の厳しい生活をしていた経験や記憶が薄れていきます。

 刺激が無くなってくるわけです。いつも似たもの同士が生活空間を一緒にしているのは、ある意味で精神的怠惰に陥り、努力を忘れ、切磋琢磨する精神性を忘れていきます。ごく普通の霊人は、見通せる世界や、関心を持てる世界が非常に狭いため、自然とそうなっていきます。そうすると、《霊界=天国》に永く生活していると、魂の進化成長が著しく停滞するようになっていきます。

 やがて、再び地上へ生まれ変わる時期が来たことを、然るべき役所の《役人 = 指導霊》から通達され、生まれ変わりの《ガイダンス》を受けることになります。ただし、地獄から生まれ変わることはありません。

③ 出会いとチャンス   

 こう考えていくと、地上というのは、生きる事そのものが非常に大変な所であることが理解されたと思います。しかし、冒頭で言いましたように、様々な次元と多様性の世界からやって来た魂達と、地上を縁にして様々な出会いとチャンスが生まれ、そして興味や関心のある世界が広がっていきます。

 地上では、言葉を通して相手の思いを知るわけですが、なかなか互いの本心を直接理解することはきません。言葉で心の中の全てを正しく表現できませんし、また聞く方も自分にとって関心がある事はよく理解できますが、関心の異なる部分を理解するのは難しいものです。しかし、相手のことがなかなか分からないために、逆に相手のことを良く知りたいという欲求が生まれてくるのです。

 心の状態がダイレクトに現れない地上だからこそ、互いの趣味、関心、価値観を認め合い、それを乗り越えて互いに学ぶことができます。男女の愛や、家族の愛、社会への愛、そして様々な困難やトラブルを経験し、精神的苦痛や悲しみもまた大切な経験となっていくわけです。

 また例えば、今まで音楽や絵画に余り興味がなかった方が、ある時、何かの切っ掛けでやってみたところ、その楽しさや奥深さを多少なりとも知る、というような事があります。プロから見れば下手なのは当然ですが、下手なりにも努力している中で、ある程度のレベルに達してこの世を終えるでしょう。

 霊界に帰って、絵画や音楽の世界を学び続け、然るべき指導霊・先生からも指導を受け、追求を続けた後に再び地上に生まれたとします。その方の、芸術性は一段と向上しているはずです。そうした方が、何度か生まれ変わる内に、プロとして活躍し、あるいは天才と呼ばれる人となっていくのです。 ですから、この地上を縁にして、貴方の未来の自分造りをしているという事が言えるのです。

 今回の転生で何かに関心を持ち、例え趣味の範囲であっても、また上手でなくとも、根気よく続けられる人は、再び転生したとき、大輪の花を咲かせる可能性を秘めています。そういうことを理解した上で、周囲の《様々な人を観察》すると、もっともっと人間というもの、他人というものが真に好きになれると思います。

 一方、菩薩や如来という高次元世界の霊人は、地球霊団全体の進化と調和を日夜考え、いろいろな計画に基づいて行動していますから、次元が高くなるほど輪廻転生に束縛される事が無くなっていきます。彼らが地上へ生まれる大きな理由は、地上文明の構築・転換と浄化という使命を果たしつつ、自己の魂をその仕事の中で進化させていく事にあります。

④ 様々な環境、時代や文明の違いの中で、色々な経験を積む

 地球霊団において最も人口が多い次元は、四次元精霊界と五次元善人界だと思います。ごく一般的な魂と言えると思いますが、その大きな特徴は、心の自由度がまだそれほど大きくないという事にあります。

 心の自由度が大きくないとは、どういう事かといいますと、簡単に言えば、身近な事に関心を持つことができますが、他人のことや、社会のこと、世界のことなどに余り関心が無いのです。関心を持ったとしても、持続しない、深く知ろうとしない、こういう事だと思います。

 慣性の法則といいますが、地上に生活していたときの心の状態のまま、あの世に行く事になります。従って、死後の霊界では、直近の地上世界の生活スタイルを継続し、また価値観を持ち続けていくことになります。

 その人の心の状態が変化したり、意図的に改善しようとしない限り、また他の世界や地上世界の変化に関心を持つことが少ないと、自らの環境を自ら変えていけないのが、実在界の特徴です。ですから、江戸時代に生きて死んだ人は、江戸時代の価値観と生活スタイルのまま、何百年でも過ぎ去っていくことになります。

 一定の時期が来ると、魂の成長と進化は著しく停滞し始めます。すると、再び地上へ転生することになるわけですが、地上は既に時代や文明が変わり、科学技術の発展もあり、全く違う世界が出現しています。

 魂の進化のためには、環境も地域も自分の意志である程度選択できるのですが、全く地上世界が変わったしまっているために、転生する際、非常に勇気がいるだろうと、誰でも容易に想像できます。天国からこの厳しい地上世界へ生まれるということは、高い崖から遙か下に見える滝壺に向かって飛び降りるようなもの、そんな喩えが相応しいかも知れません。

 地上におげる百年前と現代の違い、この数百年前の歴史を学ぶだけでも、時代と文明の違いが良く分かります。同じ日本という国でも、全く違う世界になっています。ですから、定期的に数多く転生し、そこで一生を過ごすこと、その平凡な生活の中に実は大切な修行があり、魂にとっては非常に大きな経験を積んでいる事がわかります。

 未知の経験を数多く重ねるに従い、様々な智恵を獲得し、価値観の違いを理解できるようになり、それらがベースとなって広い世界観を持つことが次第にできるようになっていきます。

⑤ 肉体を持つ不自由さ/霊の自由自在さを知る

 この世に生まれる際、記憶が封印されるため、肉体を持つ不自由さなどという発想そのものが、私達人間にはありません。病気や怪我によって一時的に不自由さを感じ、健康が如何にありがたく大切なことかを知ります。しかし、病気が治り、怪我が治って元の健康体になると、再び意識しなくなっていきます。

 霊も同じです。死後、霊となった当時は、肉体の不便さ不自由さに対して、霊とは如何に自由自在なものかを知ります。そして霊というものの本質について学ぶことから始め、次第に霊としての自覚が高まっていきます。

 霊の本質と言っても、物理的な意味、すなわち波動でありエネルギーであるという視点は、一側面からの理解の仕方です。実際は、心の法則や愛や慈悲について、感謝や報恩について、神と宇宙についてなど、その本質は奥深く、無限に広がっていく永遠のテーマですから、ここではこれ以上触れません。

 自覚が高まり、維持されている間は、霊としての無限の可能性を追求するために様々な学習・仕事を通じて努力が続けられます。しかし、やはり長い期間を実在界で生活していると、それが当たり前になってしまい、霊としての本質、自由自在さ、無限の可能性という事に対する自己認識が次第に無くなってきます。

 自覚、自己認識が無いところに成長は期待できません。霊としての停滞が始まるわけです。そうすると、肉体の不便さを知ることを通じて、霊としての本質を再認識をするために、再び地上へ転生させられることになるのです。

⑥ 成長速度と寿命 

 動物を見ると、それぞれの寿命は大きく異なります。馬や牛、犬など、人間に近い動物の寿命は意外に短いことを皆様は知っています。ここで、寿命はどのように決められているのか、そういう疑問が湧いてくると思います。

 生物学的には、遺伝子に細胞分裂のサイクルとその回数が刻まれていると聞いています。人間の場合は、60数回だと聞いたことがあります。分裂して再生する細胞の数が減ってくると、一般的に老化現象となって現れ、やがて生体を維持できないレベルになると、死を迎える事になります。

 三歳馬が出場するレースがあるように、わずか三年で馬は立派な大人になります。犬や猫、他の動物を見ても、あっという間に大人になって繁殖することが可能になります。一方で、寿命もかなり短いということが分かります。人間は三歳でようやくよちよち歩きのレベルですから、人間の成長は他の動物に比べると著しく遅い、また寿命はかなり長いことが分かります。

 以上の事を観察すると、成長速度と寿命という点において、神の計画を感じ取る事ができるのではないでしょうか。何故、人間は成長速度が遅いのか、寿命は他に比べてかなり長く約100年なのか、という事を考えてみましょう。

 まず、肉体の成長速度が遅いことと、《心の成長》は大いに関係があります。ここで言う《心の成長》とは、本来の霊魂としての進化成長の意味ではなく、魂の遺伝子に従い、この世の経験によって成長する心という意味、すなわち顕在意識とか表面意識と呼ばれる知能のことです。その発達に約20年近くかかります。この心の成長速度に合わせて、今世の魂と肉体も成長していることが分かります。

 水子や幼児のまま死んで霊となった子供は、やはりあの世において長い時間を掛けて育てられ事が、「ベールの彼方の生活」に記してあったと記憶しています。人間の知能と心、これは他の動物にはない圧倒的な能力であり、神に似せて人間は創られた、あるいは私達は神の分身であり神の子であるという本質から、そのような能力を持っているのです。その高度な心の進化成長には長い歴史があり、またこれからも永遠という時間をかけて成長していく存在なのです。

 また仮に人間の成長速度が、犬や猫、馬なみに数年で大人になるとしたら、どんな世界になるでしょうか。まず、子育てがあっという間に終わり、子供の時代もあっという間に終わりますから、親も子も、子育ての苦労や子供の時代の楽しい記憶がほとんど無く、あってもその記憶は急速に薄れていくでしょう。

 そして子供はすぐに子孫を造り、数年サイクルでどんどん子孫が増えていくとしたら、「あれー、俺の親は誰だったっけ」と、たぶんこんな世界が出現するでしょう。親子の絆や、夫婦の愛情、嫁と姑の問題、こういうものは存在できなくなっていきます。

 そうすると、子育ての期間が長いことで、夫婦の絆が深まり、親子の絆も深まる、もちろんその中に様々な葛藤や、愛と憎しみの原因も発生するわけであり、それがまた人生をより味わい深くしていきます。夫婦、子供、家族、そして仕事を人生から取り除いたとすると、この世における人間の存在意義がほとんど無くなってしまうことに気がつくでしょう。

 成長と寿命という中にも、人生を豊かにし、味わいを深くするための神の慈悲と計らいがある事、また神の芸術性を感じ取れるのではないかと思います。

⑦ 寿命がある理由

 肉体の寿命を1000年ぐらいにするのは、十分に可能だと思います。何故なら、一生における細胞の分裂回数を600回ぐらいに設定すれば良いからです。人間の肉体は機械ではありませんから、新陳代謝が適正に続く限り、若々しく肉体を保つことは原理的に可能だからです。

 では、なぜ100年という寿命を神は設定されたのか、ということを考えてみましょう。人間の寿命がもっと長ければ幸せなのか、あるいは若い姿のまま歳を取らないことが幸せなのか、病気や怪我を全くしたことが無いことが幸せなのか、こういう問題と大いに関係があります。

 宿命、運命、人生の形、このキーワードも大切な要素であり、誰でも一度は考えたことがあるのではないかと思います。例えば、別の国または異なる父と母の間に生まれたり、別の時代に生まれていたら、あるいはあのような大地震や戦争に遭遇していなかったら、あるいはもっと別の人生を送れるとしたら自分は幸せかどうか、こういう考えを巡らせるだろうと思います。

 幸福とは何か、というテーマに関係することですが、よくよく考えていくと、寿命の長さ、若さ、病気や怪我を全くしない事、また宿命、運命、人生の形、そういうものの中に真の幸福があるのではない事に気づきます。

 それらは、幸福な人生(悟りの向上という意味)のための仕掛けであり、環境であり舞台です。むしろ、様々な困難を乗り越え、成長していく自分自身の姿を観る中に、真の幸福を感じることができるのではないでしょうか。

 この世は、どんな方であっても、楽しいことや辛いことが半分づつぐらいあるのが普通です。もし、何も良いことがない、辛いことばかりという方は、心の持ち方や生き方になにか問題があるのではないかと思います。逆に、楽しいことばかりが続くとだんだん飽きてきて、退屈し始めます。悩みが無いのが悩み、こういう方が出てくるはずです。

 人生は後戻りができません。過去の様々な分岐点における選択の連鎖、努力の結果が、今の貴方という人間を創り上げています。そして、どんなに寿命が長くても、やり直しはできないのです。過去を振り返り、もしやり直しができるなら、もっと良い選択し、もっと努力するだろう、こういう思いは誰でもあるのではないかと思います。

 この世ではやり直しができませんが、輪廻転生、すなわち生まれ変わりのシステムのすばらしさは、永遠の時間の中で、やり直しができるという点にあり、敗者復活が可能なのです。ですから、寿命が100年という単位は、絶妙な設定ではないかと思えます。歳をとって次第に衰えてくるのも、あの世に帰る準備として考えるならば、なんと素晴らしい神の配慮かとさえ私には思えます。

 失敗しても敗者復活が可能だからこそ、この人生を思い切り生きる事ができ、また失敗を恐れずに様々な冒険ができるのではないでしょうか。誕生、成長・繁栄、老化、死というサイクル、それを何回も、何百回も、何万回も、何十万回もくり返しながら、人生をやり直し続けている、その中で魂が成長進化していく、それが人間の永遠の姿です。過去のカルマを修正しつつ、今世で良い種を蒔く努力が大切であり、そのような視点を忘れなければ、今回の人生をより有意義なものにしていくことができるはずです。

⑧ ゼロからのスタート、記憶が封印される意味

 霊界と地上のどちらが本来の世界か。霊界を実在界と呼び、この世を仮の世界と呼ぶのは何故か。これを説明するための一つの証拠として、地上に生まれる際に例外なく過去の記憶は封印されるが、死、すなわちあの世への旅立ちにおいては、この世の記憶を持って帰る事を前述しました。

 では、記憶を封印するのは何故か、ということについて考えてみましょう。仮に天国における様々な記憶があったら、いったいどういう事になるでしょうか。

 快適な生活環境、寒くもない、暑くもない、嵐もない、夜もない、草花が咲き乱れ、そよ風が心地よく、空気もさわやかに澄み、そういう天国と比較すると、この地上は一体どうでしょうか。灼熱の砂漠地帯や、極寒の地域にも沢山の人々が暮らしています。嵐や大地震その他の事故や災害で毎日多くの人が亡くなっています。

 また戦争が絶えない地域では、隣国同士の激しい憎しみが渦巻き、二度の世界大戦をはじめ人類史は戦乱と争いの連鎖という側面を持っています。現代の日本に住む私達は幸いにして、そのような経験はありませんが、わずか半世紀前の父や母の時代、彼らの青春時代は正に戦争と正面から向き合わなくてはなりませんでした。

 また、生きるためには食べなくてはなりません。働いて生活の糧を得、家族を持ち、子育てをするという社会生活の中では、様々な困難と遭遇し、また心の葛藤や憎しみや悲しみ、多くの精神的な苦境を誰でもが経験することになります。

 従って、天国の記憶があるとするならば、この地上に生まれて約100年間、どのような心境で生きることになるであろうか。おそらく、この地上生活には耐えられない、早く帰りたい、という気持ちが心を大きく支配するだろうと思います。そのような厳しく辛い気持ちを持ちつつ生きるのは正に地獄であり、この地上は地獄と変わらなくなってしまいます。

 記憶が一切無いからこそ、この世を懸命に、また新鮮な思いで、苦しい中にも楽しみを見出しつつ、互いに協力し合い、色々な次元と多様性の魂達とが切磋琢磨しつつ、様々な経験を積むことができます。そして、豊かな人生を経験できるのです。私達は、数知れないほど多くの人生を過去に経験してきました、またこれからも無数の人生を経験していくことになります。

 以上のことを深く認識すると、記憶を封印するのは、神の大いなる慈悲であることを理解できると思います。同時に、結果として、魂の進化を大いに促進する事になります。

⑨ 魂の成長と進化

 実在界からこの世に生まれるに際しては、時代や国、地域と家族といった環境を選び、すなわち宿命を選び、そしてその後の人生に関するおおよその運命を受け入れてから生まれてきます。その宿命と運命は必ずしも幸福な人生を送れない過酷なものであったりします。

 この世に生まれるだけでも相当な勇気が必要ですが、その上に自分の宿命を定め、予想される運命を受け入れてくるわけです。すなわち、覚悟と決心をして生まれてくるのですが、それは何故でしょうか。

 生まれ変わりのガイダンスにおいては、地上で何を学ぶか、その人にとって成長のためにどういう経験が必要か、そのための環境はどういうものが相応しいか、このような検討が為されます。学習目標を幾つか決めて、その環境を選ぶということです。

 ですから、その人がこの世で恵まれた幸せな人生を送ることが目的ではありません。例えば、その人が前世において、他人を不幸に陥れたことがあれば、今回は逆に陥れられる経験をする事もあります。また、結婚生活がうまくいかない人は、何度も離婚をくり返して、調和する方法を学んで行きます。過去に経済的に恵まれた家庭に生まれ放蕩三昧の生活をした人は、今度は極貧の家庭に生まれるという具合です。

 カルマの刈り取り、業(ごう)とか言います。誰でもカルマを持っています。しかし、こういう言葉の響きの中には、罪悪感とマイナスのイメージがつきまとい、またそのように感じている人が多いので、私は余りこの言葉を使いたくはありませんが、それは事実です。

 私は、カルマや業のことを《心の傾向性》と言っています。心の歪み、魂の歪みとも言えます。魂の成長の過程では、いろいろな経験を積んでいくのですが、一つの経験を積むたびに、魂が歪み、凸凹ができます。成長盛りであればあるほど、たった一つの経験が大きな歪みを造ります。

 凸凹を修正しバランスをとるために、今度は凹んでいる部分を埋める経験を積むために転生します。つまり、カルマあるいは業というのは、魂の成長の証しであり、今世で凹みを埋めると共に、また新たな出っ張りを造っていくのです。ですから、少しも悪いことではないのです。

 心の様々な要素がバランスが悪い、あるいは調和が取れていないために、結果として不幸を招いたり、失敗を重ねることになります。長所である性格も、時と場所によっては、逆効果になります。

 不幸や失敗の第一原因として、その人の心の傾向性、心の歪み、凸凹が必ずあるのです。自分の心の傾向性に気づくのは容易ではありませんが、様々な失敗や、不幸、運が悪いと思われる様々な現象の中に、自己を客観的に知るための貴重な材料があるのです。

 自ら選択した環境や運命、それは魂の成長のための仕掛けであり、舞台なのです。魂の成長のことを悟りといいます。輪廻転生のシステムは、魂の成長のため、悟りの階梯を登るための義務教育であると言うことができます。

 生まれる前に、生まれ変わりの申請書には、その人の課題と目標が書かれ、神に誓いを立てて生まれてきています。聖書には《契約の書》として登場しています。またその書を納めるための《契約の箱》も登場します。数千年前のイメージでは契約の書であり契約の箱でしょうが、現代ならばコンピュータに全てが登録されている、そのようなお役所をイメージしてください。 

9.宗教は科学である/
      この世とあの世を統一する物理学の存在
 
 


 物理学というと違和感を感じるかも知れませんが、しかしそれは貴方の思いこみでしかありません。物理学といっても良いし科学と言っても同じ事ですが、普遍的な法則があるという点が大事なのです。

 愛という言葉を聞いても、一般的には漠然としたイメージしか湧かないと思います。しかし、愛というものの本質が分かってくると、そこにもやはり法則がある事を認識できるようになります。成功哲学と称される成功のための心の法則と同様に、愛の物理学、愛の力学、愛の作用と反作用、そのような研究テーマが可能になるということを示唆しています。

 私が探究している精神世界は、従来の伝統的な宗教ではありません。もちろん、神、イエスキリスト、釈迦、モーゼ、アールエルランティ、大天使、如来、菩薩・・・等が登場しますが、それは架空のものではなく実在するものです。地上の人間からは見えない世界でありますが、確実に存在しています。

 実在はすなわち現実ですから、この三次元地上世界、四次元、五次元、六次元・・・・無限、これらを統一する物理学・科学があるはずです。それらを神理と呼んでいますが、神理とは神の法則を意味する言葉です。六次元以降の世界では、建築、造園、生命の創造などが自在に行われている(『ベールの彼方の生活』参照)ようですから、エネルギーや生命に関する理論、科学技術と言えるべきものが現実に存在しているのです。

 やがて、地上は宇宙時代に入るでしょうが、その時、霊界の科学技術がこの地上へ降ろされてくるでしょう。宗教と私達が呼ぶ世界は、実は現実であり、この世とあの世を貫く科学です。心の科学だけではなく、空間と時間、エネルギーと生命に関する物理学・科学の世界である、それが私が持っている認識です。

         『宗教は科学である』 序文   本文

を参照してください。

 次に、宗教は科学であるという、その物理的な核心は何か、ということについて述べてみたいと思います。

10.この世とあの世を貫く大原理/
     エネルギーの輪廻転生-色即是空・空即是色 

 物質とは、エネルギーがある状態で凝縮したものであることを、現代の物理学では明白に説明しています。そして死後の世界、あの世、すなわち実在界はエネルギーの世界である、そしてまた霊とは永遠の生命を持つエネルギーであり波動である、と私は言い続けています。

 ですから、この三次元を含み、高次元が低次元を包含する多次元的世界、すなわち全世界の本質はエネルギーであり波動なのです。神の光とは、神が放射するエネルギーを意味する言葉であり、あるいは神そのものであると言えるかも知れません。そのエネルギーが神の意志により様々に変化しながら、発散と凝縮をくり返しつつ変転していく、それが大宇宙の真実の姿です。

 《色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)》という釈迦の言葉があります。色とは《目に見える物》という意味であり、空とは《目に見えないエネルギーが充満した空間》を指す言葉です。色とは表面的な現象、空とは目には見えない実態を表す言葉である、と理解しても同じ事です。宇宙の実態を表す言葉として理解しても良いし、この世とあの世を輪廻転生する霊魂の在り方として理解することもできます。

 物質はやがて消滅して目に見えないエネルギーへと転生し、またそのエネルギーは再び物質へと転生していく、すなわちエネルギーと物質とが転生輪廻している、それが大宇宙の存在の本質です。転生し、姿形を変えたり、消滅しても実態であるエネルギーは変わることなく存在し続けるのです。

 では、なぜエネルギーが転生輪廻するのか、それは神の意志であり、神の計画にかかわる秘密だと私は理解しています。

 色は、もともと三次元世界の物質を指すものでした。しかし実在界にもまた、霊が触れることができる《物》が存在すると前述したように、この釈迦の言葉を高次元の世界まで適用することが可能だと思います。

 すなわち、ある次元の世界において、更に上の高次元世界は見えない世界ですから、やはり地上と四次元霊界との関係と全く同じだからです。

 全世界の本質がエネルギーであるならば、エネルギーに関する原理や法則について確かな認識を持つことが、霊界の様々な出来事を理解する事に大いに役に立つはずです。そして、それは神の心をより正しく理解することに通じ、また神の心を忖度するための手段と成り得ると私は思います。

 次項から、更に深く考察を進めて行きます。

11.エネルギーの法則/神光物理学  

 この世とあの世を貫く神の光、すなわち《神のエネルギー法則》、エネルギに関する物理学、これを神光物理学と称して、改めて考察を深めてみたいと思います。神光物理学における大きな法則が三つあります。

  1.波長導通の法則 2.増幅と打消しの法則 3.創造と破壊の法則

 これらの法則について、その内容を具体的に考えてみましょう。

11-1 波長導通の法則  

① エネルギーの本質は波動であり周波数を持つ

 私は科学者ではありませんが、エネルギーには大別すると二つあると思います。一つは、物体が持つ運動エネルギーや位置のエネルギー、また物質が持つ化学変化に対応するエネルギーです。もう一つは、熱や光、音に代表されるエネルギーです。

 前者は波動ではありませんので、周波数を持ちません。後者は波動ですから周波数を持ちます。熱も物質の振動エネルギーですから、周波数を持ちます。物質はエネルギーの凝縮したものですから、凝縮に際してエネルギーが持つ本来の周波数が停止した状態と考えられるかも知れません。しかし、原子や分子そのものは常に振動しており、それは内部エネルギーとか熱という概念を産んでいます。絶対零度とは、物質が振動を停止した状態のことです。

② エネルギーの状態変化

 水のように、本質的に同じ物が、見えない水蒸気であったり、結露して液体である水になったり、更に水が個体である氷になったりすることを、状態変化と科学的に呼びます。水という分子の集合体が持つ温度の変化によって、そのような状態変化が起きます。ここで、温度とは前述したように分子の振動の強弱の事をいいます。

 同じ周波数を持つエネルギーでも強弱があり、その強弱の事を振幅と呼び、《波の高さ》で表現します。これはあくまで推測ですが、エネルギーを凝縮させて固定するということは、波の高さを極力小さくしていく、つまり振幅を最小にしていく、場合によってはゼロにしていく、そういう操作を指すのではないかと私は思います。これをエネルギーの状態変化と呼ぶことにします。

 この三次元は物質の世界ですが、物質しか存在しないのではなく、物質はエネルギーの海に浮かぶ島に例えられます。この宇宙空間は、ある種のエネルギーに満ちており、そのエネルギーと物質が状態変化、すなわち転生輪廻をくり返しつつ、時空間をつき進んでいるというイメージを私は持っています。水で言えば、池に浮かぶ氷に例えられるでしょう。人間の輪廻転生も、霊魂の状態変化と呼ぶことができるでしょう。

 物質界である地上から見ると、四次元の実在界はエネルギーの世界です。同様に四次元世界の住人にとって、見て触れるものは地上の物質に似ており、四次元からは見えない五次元世界もまた、やはり空間に満ちたある種のエネルギーの世界であると言えます。五次元の住人にとってやはり物質に似たものが存在し、その上の六次元はやはり見えないエネルギーの世界です。そうやって、更なる高次元世界へと続いていきます。

③ 波長導通の法則とは何か

 この世も、高次元の実在界も、全てはある種のエネルギーであり波動であるところの神の光からできあがっていると説明してきました。私達の心、霊魂もまたエネルギーであり、波動であるのです。そのエネルギーであり波動である最大の特徴は、《周波数を持つ》という事です。

 周波数と波長という言葉は一対のものであり、周波数が高くなると波長は短くなり、低くなると長くなるという関係にあり、どちらの言葉を使用してもここでは同じ意味になります。波長導通の法則とは、同じ周波数の波同士は通じ合い影響し合うが、異なる周波数の波同士は互いに影響を及ぼすことができない、というものです。テレビやラジオの選局、または様々な放送が混線しないのはこの法則を応用しているからです。

 類は友を呼ぶという言葉がありますが、心が通じ合う者同士、あるいは好きな仲間、心地が良い仲間というのは、心の波長が近い者同士だと言えます。心の波長が異なると、長く一緒にいるのが次第に苦痛になっていきます。

④ 周波数の違いが実在界の多様性と次元構造を創造する

 この波長導通の法則が極めて重要なのです。すなわち、この法則が実在界の多様性と次元構造を創り上げているからです。地獄の最深部から神の世界まで、四次元、五次元、六次元、七次元・・・・・更に高次元まで、どこが最終次元かは不明ですが、このようにタマネギの皮が内部を包含するように重なっているように、実在界は成り立っているのです。

 但し、例えば四次元は地獄の最深部から地上の世界に近い精霊界までを含みますから、同じ四次元といっても、もっと細かく、見える世界と見えない世界とに分かれていると考える方が実態に近いと思います。すなわち、同じ四次元といっても一定の幅を持った周波数領域ですから、実は無数の異なる周波数によって成り立っているのです。

 ここで余談ですが、では何故一定の範囲の世界をまとめて四次元と呼ぶか、そこには大きな特徴があります。この四次元世界の住人においては、悪を捨て善を選ぶという精神性の優位性が心の中でまだ確立されておらず、善悪の概念や区別が無いか乏しい事を特徴としています。各次元の重要な構成要素については、別のテーマとして考えてみたいと思いますので、ここでは詳述しません。

 一定の幅の周波数、例えば周波数100Hz~200Hz(Hzヘルツ)という範囲の中に幾つの周波数が存在するかというと、無限に存在します。100と200という数字の中に、幾つの数字が存在するかという問題と同じです。もちろんも小数点以下の数字を含むわけです。ですから、同じ四次元世界でも、無数の周波数が存在し、無数の階層的世界が構築されているのです。その階層的世界は独立した世界であり、自由に行き来できるものではありません。

 後述しますが、地獄の最深部からの脱出に際しては、長い年月をかけて努力し、心境の向上(心の波動を改善)を少しずつ成し遂げ、無数の階層的地獄を旅しながら上昇していく必要があります。過ちに気づき反省したから赦されて天国へ昇る、そういう簡単な事ではありません。

 悟りの階段を昇る事(心の波動を改善)は、一朝一夕にできることではないのです。更に、一歩一歩昇ろうとする自らの努力が極めて大切です。

⑤ 個性とは何か

 私達人間の持つ心の波動の種類は無限にあると推定されます。人間は神の分身、すなわち神の子ですから、神の属性を持つ波動もまた当然持っています。同じ周波数でも、振幅(波の高さ)が異なれば、その波動が持つエネルギー量が異なります。

 言い換えれば、活性化している波動とそうでない波動を同時に持っているわけであり、振幅の異なる多数の波動の組合せにより、その人の個性を創り上げていると私は思います。

 人間の心は常に揺れ動き、地獄的な心になることもあれば、天国的な心を持つこともあるでしょう。これを《一念三千》といいいますが、心は瞬時にあらゆる世界に通じるという意味の言葉です。あらゆる世界に通じるとは、あらゆる波長の心になることができるという事です。

 それはすなわち、人間は本来あらゆる種類の周波数を持っている事を証明しています。そして、その人の最も心地が良い周波数、または常に心を大きく支配している幾つかの特徴的な周波数があるのです。その特徴的な周波数が、その人の個性を決めており、心の傾向性、カルマを決めています。さらに、魂の住むべき次元を決めていくことになります。

⑥ 忍辱(にんにく)の教え/毒を食らわない忍耐の教え-仏教の言葉

 忍辱を辞書で調べると、「恥を耐え忍んで、心を動かさないこと」とあります。しかし、この忍辱という教えは、辞書を調べてもなかなか真の理解ができないと私は思います。

 何故なら、恥を耐え忍んでとありますが、我慢するということは既に心に大きなストレスがかかっており、心は既に動いているからです。ですから、辞書の説明を理解しようとしても、できるわけがないのです。従って、辞書の説明は間違っている事になります。では、毒を食らわない忍耐とは何でしょうか。

 波長導通の法則のテーマの中で、この忍辱を取り上げたのは、理由があるからです。すなわち、波長導通の法則の応用の一つが正にこの忍辱の教えであると私は思うからです。

 毒を食らわない忍耐の教えを忍辱と言います。一般的な認識である我慢するという意味の忍耐とは異なるのです。ここをしっかりと理解してください。他人から浴びせられた悪口、雑言、誹謗中傷の言葉を聞いて、我慢したり、耐え忍ぶのではなく、さらりと心の中を通過させるのです。逆に心の中で受けとめ反論したりすると、心に毒を食らうことになり、その毒が全身に回って怒り苦しみ、更に長期に悩みを持ち続けることになります。

 では、どのようにしたら《さらりと心の中を通過させる事ができるか》という事になります。相手の発する言葉も相手の心も波動ですから、自分の心の波動を合わせなければ良いのです。波動を合わせないということはどういう事でしょうか。相手の言葉をしっかりと聞いて理解しても、心の波動を合わせないとは如何なる事でしょうか。

 波動の持つ周波数原理が次元を分かつと言いました。従って、自分の心の次元を相手よりも高く持てば良いことになります。では、心の次元を高く持つとは何か。ここからは悟りそのものですから、これ以上の解説をしても余り意味がありません。皆様自身が心に問うて、如何なる場合でも毒を食らわない事を心がけてください。

 余談ながら、毒を食らって悩み苦しんだ経験は誰でもあるでしょう。嫌いな友達というのではなくとも、身近な友人同士のいざこざや、また夫婦げんかなどもお互いに毒の食い合いのようなものではないでしょうか。心の修行者としては、言葉に毒を入れないように心がけなくてはなりませんが、相手の毒を食べないことが最も重要な修行課題だと私は思います。

11-2 増幅と打消しの法則-共振、協調、親和性  

 エネルギーは周波数を持ち、同じ周波数同士は通じ合い影響し合う、異なる周波数同士は互いに通過して影響し合わない、という波長導通の法則を説明しました。同じ周波数同士は通じ合う、すなわち影響し合うという意味の中には、《打ち消し合う》という意味と《高め合う、増幅し合う》という二つの意味が含まれています。

① 共振、協調、親和性

 波長導通の法則は次元を分かつ絶対性を持つために、比較的に分かりやすいのですが、増幅と打ち消しの法則は、神の心とは何か、愛とは何か、智恵とか勇気とは何か、というテーマと大いに関係する法則であるのです。

 例えば、縄跳びの経験は誰でもあるでしょう。縄が回転する速度が一分間に60回として、貴方が飛び跳ねる回数も同じ60回だとします。それだけで、縄跳びができるでしょうか、できませんね。飛び上がるタイミングが非常に大切であり、とても難しいという事を貴方は知っています。長い縄を用いて大勢でやる縄跳びはもっと難しく、でも楽しい、そういう子供時代の想い出は誰でもお持ちだと思います。

 縄の回転という周波数と、飛び上がるという周波数は同じでなくてはなりません。しかしそれだけでは縄跳びはできないのです。何が必要か、それは縄を回す人、飛ぶ人全員の心を合わせ、リズムをとり、タイミングを合わせるという事です。

 波動として説明すると、二つの同じ周波数を持つ波動のタイミングのずれを、位相といいます。同じ周波数の波動を重ね合わせ、山と山、谷と谷が重なるようにすると、エネルギーが合成されて高められ、山は高く、谷は深くなります。反対に、山と谷が重なるようにすると、互いに打ち消しあって、谷は浅く、山は低くなります。

 全く同じ振幅(高さ)の波を重ねると、同位相の場合は波の高さが二倍になり、180度位相がずれると、波は打ち消しあって完全に消滅します。位相のずれがその中間であるとすると、それに応じて波が増幅されたり、減殺されたりします。

 増幅し高め合うことを波動の言葉では共振と言いますが、一般的な言葉で言えば、協調性とか親和性ということになるでしょう。打ち消し合うことを相殺するとも言います。では、これが何故神理と関係があるかを考えてみましょう。

② 神理との共振性、協調性、親和性

 現世とあの世(実在界)にある全ての生物と物質を包含するこの大宇宙は、神が創造したものですから、それら全てに神の属性があります。神の属性とは、神の性質を持っているということであり、神が宿っているとも言えるでしょう。

 神の属性を波動として扱うならば、神と同じ波動(周波数)を持っていると言えます。地獄の最深部の住人や、悪魔サタン、悪霊と呼ばれる者達も同様です。地上の人間も、四次元、五次元、六次元・・・・更なる高次元の住人もまた同様です。神の周波数である波動を持ってはいても、次元が低いほどその振幅(エネルギー)が小さい、平たく言えば活動が活発でないか、活動を停止していると言えます。

 すなわち、地獄霊を含めた全ての霊魂は、神と通じることが本来可能であるのです。では何故、地獄霊は地獄で呻吟しているか、なぜ這い上がれないでいるか、こういう疑問に発展するでしょう。神理とは神の理(ことわり)であり、法則を意味する言葉ですから、表題の神理との共振性、協調性、親和性とは、神の法則に逆らわない、法則に協調する、法則に共振する心の持ち方を意味し、それはすなわち神の心を忖度する積極的な生き方へ発展します。

 神を信じている人であっても、神の法則と親和性がない、協調性がない間違った生き方をすれば、不幸になっていきます。この世には数多くの宗教があり、多くの人が神を信じています。しかし、信仰がその人を幸せにしているかと言えば、必ずしもそうではありません。一つの例として、オーム真理教のようになってしまう事がそれを証明しています。

 伝統的な宗教を信じているから、あるいはその教えを守っているから、これで間違いは無い、そう思うのは早計だと申し上げているのです。現在は複雑な世の中であり、善とも悪とも、白とも黒とも言えない状況に満ちていますから、教条的に教えを守るだけでは、時と場合によって神理に反する事になっていく事もあるのです。

 その時、神理における基本的な原理を理解している事が、物事を判断するために大きく役に立ちます。神の心の一端でも正しく理解したいと思うなら、そのためにはまず、この世・宇宙の成り立ちと歴史、霊界の真実、霊魂と神、繁栄と調和の原理、霊魂の進化成長、そういう広い知識を獲得し、それをベースにして考える必要があると私は考えています。

 神理との共振性、協調性、親和性について、地獄の最深部・無間地獄からの脱出した人の霊言を参考にして、更に考えてみましょう。

③ 地獄の最深部・無間地獄からの脱出

 逆に、どのような次元世界の住人でも、例え地獄霊であっても、神の法則に沿えば神のエネルギーがその霊人の心に伝わってくるという例を挙げてみましょう。
****2018.01.31未リンク****「死後の世界」潮文社 出版 J・S・M・ワード著 浅野和三郎訳 復刻版 にある興味深い話を紹介します。

 ある悪徳陸軍士官が酔っぱらったあげく、馬車にはねられて死にます。最初は死んだことが認識できなかったのですが、生前から憑依されていた悪霊から、お前は死んだのだ、と教えられます。その悪霊(実は自分も既に悪霊なのです)が、人間に憑依していろいろ楽しむ方法を彼に教えます。

 しばらくは人間に憑依し、さんざん悪さをしたあげく、やがて地上を徘徊することができなくなり、地獄へ真っ逆さまに堕ちます。地獄に堕ちても、他の地獄霊に悪行の限りを尽くし、とうとう地獄の最深部、無間地獄へ堕ちてしまいます。

 地獄のある所に、真っ暗な大きな穴があり、そこへ吸い込まれるように落下します。落下するときの風を切る音を聞きながら、何年も、何十年も落ち続けるのですから、ものすごく深い穴なのでしょう。やがて、空気が粘性を帯びてねっとりとした感じになり、幾分落下速度が落ちてきました。そして、コールタールのように極度にねばねばした液体の中を更に更に沈んで行きます。

 速度が落ち、やがてぴたりと停止します。しかし、周囲は漆黒の闇であり、コンクリートに閉じこめられたように、霊としての体や手足を全く動かせない、口も動かせない、そのような状態になります。やっと、落下が止まった喜びもつかの間、その状態のまま、もうどうにもなりません。

 コンクリートに閉じこめられたかのごとくの姿勢で、漆黒の闇の世界で、何年も何十年も、寒くて震えつつ彼は何を考えたか、最初の数十年は神を呪い神を恨み続けました。死にたいと思っても、もう死ぬことはできません。そして次第に、神を呪い恨むことに疲れてきます。そして、死ぬことができないのであれば、何とかここを出たい、助かりたい、そういう念いがかすかに心の一角に生じてきます。

 やがて、助かりたいという気持ちが次第に大きくなり、どうしてこんな風になってしまったのか、今までの自分の生き方が間違っていたのか、そんな気持ちが湧いてきます。そして、今まで神の存在など信じたことがなかったのですが、ふと神という言葉を思いだし、「神様」と心で言ってみました。

 そうすると不思議なことに、心に温かいものを感じたのです。そして、思わず「神よ救い給え」と心に唱えたのです。その瞬間、コンクリートに閉じこめられたような漆黒の闇の中で、体が「スーッ」と上昇をしたように感じたのです。そして、涙を流しつつ熱心に「神の名」を呼び続け、聖書の一句を思い出しては唱え続け、一心不乱になって神に救いを求めました。

 やがて、次第に上昇する速度が上がり、粘液質の液体から脱し、やがて風を切る音を聞きながら、ものすごい速度で上昇していったのです。そして、その漆黒の大きな穴から出ることができました。しかし、そこはまだ地獄の深い場所であることに変わりはありません。

 彼は、今までの生き方が間違っていたことを反省し、地獄から脱出して、もう一度人生をやり直したい、と強く思うようになりました。そこに、導きの霊(姿を変えた天使)が現れ、闇の中を導かれていきます。幾人もの導きの霊に引き継がれながら永い地獄旅を続けていきます。

 次第に心境が上がり、心境が上がる度に次の明るい地獄へ上がることができるのですが、その時、身を焦がすような、火傷を全身に受けるような痛みに耐える必要があります。何度も、その痛みに耐え、ついに地獄から脱出することに成功します。

 この霊界通信は、地獄の最深部・無間地獄から、ある陸軍士官が脱出した体験記であり、大変興味深いものです。神の波動と親和性を持つことで、地獄の最深部の霊であっても、神のエネルギーがその心に注がれるという、エネルギー原理の一例としてお話ししました。

 次に、聖書の言葉から、その意味を更に考えてみましょう。

④ 貧しい者・富む者/持てる者・持たない者

 神理との共振性、協調性、親和性の例として、地獄の最深部からの脱出という話をしましたが、別の例を挙げてみましょう。

 「ヨハネの黙示録」以外の聖書については、私は詳しく知りません。しかし、黙示録の中にも「貧しい者・富む者」という言葉が出てきますし、旧約聖書、新約聖書のいろいろな所で使われているようです。そして、その意味について、いろいろな解釈がされており、果たして神の真意、イエスキリストの真意が必ずしも正しく理解されていないように思えます。

 インターネットをで調べると、いろいろな事が書かれています。それだけ、解釈が分かれ、混乱しているのだと思います。《貧しい者》・《富む者》/《持てる者》・《持たない者》という言葉を、物質的な意味で理解すべき場合と、精神的な意味で理解しなくてはならない場合と、峻別して全体の意味を把握する事が大切だと思います。

 聖書の言葉に次のような句があります。

 1.『貧しい者はさらに貧しくなり、富む者はますます豊かになるであろう』
 2.『持てる者はさらに与えられ、持たない者はさらに奪われるであろう』

 貧しい者はさらに貧しくなり、持たない者はさらに奪われる。富む者はますます豊かになり、持つ者はさらに与えられる。普通に読めば、ずいぶん不公平な話であり、また愛を基本ベースとして、神理を教えたイエスキリストは理不尽な事を言う、そう誰もが思うはずです。

 聖書のどの部分に書かれているのか、私は知りませんが、貧しい者・富む者・持てる者・持たない者という言葉を精神的な意味で理解したとして、貴方はこの句を真に理解できるでしょうか。ここで、波動の法則から考えるとよく理解できるという話をしましょう。

 句1.を「心(信仰)が貧しい者はさらに貧しくなり、心(信仰)が富む者はますます豊かになるだろう」と読めば、何となく理解できますが、何故さらに貧しくなるのか、何故ますます豊かになるのか、その原理が分かるでしょうか。

 句2.を「信仰を持つ者はさらに与えられ、信仰を持たない者はさらに奪われるであろう」と読めば、やはり何となく理解できるが、何故さらに与えられ、何故さらに奪われるのか、その原理が分かるでしょうか。

 神理、すなわち神の法則という波動に協調する心を持ち、生き方を合わせていけば、いつも貴方の心に届けられている神のエネルギーを受け取る事ができる、それは増幅、共振、協調、親和性の波動原理から当たり前のことなのです。逆に、神理に逆らう心、逆らう生き方は、いつも貴方の心に届けられている神のエネルギーを波動として減殺し、相殺し、打ち消す事になります。

 これは原理であり、法則ですから、神理に逆らう心や生き方をする者は、どんどん不幸になり、どんどん堕ちていく事になります。堕ちていくとは、魂として退化していく事を意味します。逆に神理に沿う心を常に持ち、神理に沿う生き方を心がけるならば、金銭的にはともかく、魂の成長が続き、心はより豊かになっていくということです。

 これがイエスキリストの言葉の真意であると私は理解するところです。

⑤ 神の心、神の考え方、神の意図に対する積極的な念いを持つということ

 神理、神の法則に沿う、すなわち神の波動と自分の波動を共振させ、協調させる、あるいは増幅させるということを考えてきました。しかし、ではもう少し具体的には、どういう事なのでしょうか。

 心正しく、心清く、という事もあるでしょう。また神を信じ、神を愛するという人もいるでしょう。また愛を実践し、報恩行を行うという人もいるでしょう。それらは、全て正しいと思います。しかし、現在の私達の生きている世界は、大変複雑であり、単純ではありません。

 一言で言えば、何が正しくて何が間違いか、あるいは何が善で何が悪か、これを明確に知り判断できないことの方が多いのです。時と場合によって、同じ行為や言動が正となり邪となり、善になり悪になる、これが現実です。

 宗教の発祥地として象徴的なエルサレムは、正にキリスト教とイスラム教が激突している場所です。両陣営とも正義は我が方にあり、他方を悪として憎んでいます。両陣営の指導者は我が方の国民を守るという愛と正義を主張するでしょう。すなわち、ここでは愛と正義が衝突して、悪を創りだしています。

 友人同士でも、ある時、些細なことから言い争いとなり、決別するという事があるでしょう。お互いに好きになった者同士が結婚しても、夫婦げんかのあげく、離婚する人もいます。そういう場合、片方が一方的に悪いということはほとんどありません。両者の正義と正義、自由と自由がぶつかり合い、悪を産んだと言えると思います。

 社会の様々な出来事をみても同様です。賛成派と反対派、利する者と害される者が大抵の場合存在します。両者にそれぞれ正義があり、互いに主張し合い、激突している、これが現実です。両者を満足させる方法があれば良いですが、無いことの方が多いのです。

 すなわち、正か邪か、悪か善か、真の愛か偽の愛か、白か黒か、そういう取り組み方では解決できない事が多いのです。しかし、問題は解決して行かなくてはなりません。私達はその中で神理に沿う生き方、考え方、心の持ち方を身につけ、さらに実践していこうとしているのです。

 であるならば、何が私達に必要なのでしょうか。

 善悪の判断がつかないとき、何を拠り所として考えるか、ということです。まずは、いろいろと利害を考え、できるだけ多くの人が調和できるような方法を考えるでしょう。しかし、それだけで本当にベストの選択ができるかというと必ずしもそうではありません。

 親であったり、先生であったり、社長であったり、指導者の立場にある人ならば誰でも経験する事ですが、全員が反対しても、やらなければならないことは幾らでもあります。最終的に到達することは、本人が意識するしないにかかわらず、

   「神ならば、この問題をどのように考え、解決するだろうか」

 ということであり、自我を排除して無我となり、神の波動を感じ取り、そこから何かをつかもうとするのではないでしょうか。深く洞察し、神の心を忖度するとき、ひらめきすなわちインスピレーションとして解決の糸口を与えられることも多いと思います。

 神の波動に協調する、共振する、増幅するという話を、波動の原理から説明してきました。

⑥ 神の波動に対して親和性を持つということ

 神の波動に協調する、共振する、増幅する、すなわち神の心を知り忖度しようとするのは、非常に積極的な係わり方です。しかし、全ての人がそうできるわけでもなく、またその強弱も様々だと思います。

 地獄の最深部から脱出した陸軍士官の話は、協調するとか共振するという言葉よりも、親和性を持つという方が、実態に近いかも知れません。「神の存在に初めて目を向け、神に救いを求める」というごく初歩の段階です。溺れている人にとっては、それが全てですから、神は我が子が回心した喜びと共に、救いの手を差し伸べるだろうと思います。

 しかし、次のステップとして、自力で泳ぎたいという気持ちが湧くことを神は期待しており、更に泳ぎ方を正しく覚える事を期待しています。泳ぎを覚え、やがて人にアドバイスできる段階が次にあります。人生における様々な苦難は、その人にとって人生における一冊の問題集であり、その問題に正面から取り組み、自ら解決することを神は期待しています。本人が限界まで努力している時に、初めて神が援助の力(守護霊、指導霊からのインスピレーション、その他)を差し伸べるでありましょう。

 神の波動の本質、宗教の本質はここにあります。

 自助努力、自力の努力が極めて大切です。最初から他力(神)を期待する者に、神が手を差し伸べることは絶対にありません。最大限の努力をしつつ、あるいはした後に、その結果がどうなろうと、仮に失敗しようと成功しようと、幸福になろうと不幸になろうと、それは神にお任せするしかない、そういう心境に達することが大切なのです。

 ですから、徹底した努力をしないで、神の名を呼び、神に全託する、信じる、愛している、と幾ら心に念じ祈り、安らぎを得たいと思っても、それは神の心に反しますから、神の波動と親和性が無く、共振する事もなく、逆に神の波動と相殺し、減殺されていくのです。

11-3 創造と破壊の法則-エネルギーの集中と発散 

 《波長導通の法則》、《増幅と打ち消しの法則》について考察してきました。続いて、《創造と破壊の法則》について考えてみたいと思います。

① イメージを創り、理念を定め、意念を集中させる

 [11-1-②]エネルギーの状態変化というテーマの中で、水の状態変化に例えて、各次元ごとに、《目に見え触れる事ができる物質》と《目に見えないエネルギー》があり、そのエネルギーはより高い次元の存在を意味している、という話をしました。

 では、その状態変化を引き起こすのは、どんな原理によって誰がそうするのか、という問題になります。

 結論を言うと、実在界・霊界においては、《生物や物》を具体的にイメージし、そこに《存在の意味づけ》すなわち理念を持たせ、意念を集中させることで、空間に充満しているエネルギーを集中・固定させて創造します。簡単なもの、高度なもの、大規模なものという違いはあっても、これは誰でも霊となったときに経験し、また学ぶ事なのです。大規模、高度な物は大勢の天使達の力を合わせて行いますし、また創造のための装置もあるようです。

 余談ですが、この世、三次元世界においても、何かを固定する場合、ひもや粘着テープ、各種の接着剤など普段から誰でも使用しています。物質で物質を固定しているわけです。あるいは、ガス体を容器に封じ込めたり、電線の中を電気が流れるようにしたりするのも、似たようなものです。

 同様に、空間に充満しているエネルギーを意念というエネルギーで固定する事ができるようなのです。霊界の科学、エネルギー転換の科学というものが存在するということです。しかし、一度に高度の生物や建造物が創造できるわけではなく、基本になるものをまず創造し、次第に変化させていき、完全なものに仕上げていくようです。

 地上の生物も、霊界の生物の投影として創造された物であり、無神論をベースにしたダーウィンの進化論は完全な誤りですが、では全く進化という事が無いかというとそうではなく、神の意志と計画によって進化という事は実際にあります。人間の肉体も、最初に地球に招かれた人類が持っていた肉体元祖から、地球の神の意図によって、地球環境に合った現在の肉体へと変化してきました。

 これらを霊界の話として、この世ではあり得ない話と受け取るのは早計です。現在の人類の科学技術はまだ幼稚な段階であり、高度に進化すると、この世の人類もまた似たような事ができるようになるはずなのです。

 すなわち、物質をエネルギーに分解し、空間を伝送した後、再びエネルギーを固定化して元の姿に戻す技術、物質や肉体を分解し空間を瞬間的に移動させる技術の事です。現在はFS物語ですが、理論的にはあり得る事であり、現在はまだその技術がないだけです。

 数百年後は、各家庭に調理装置・BOXがあり、上からゴミでも残飯でも何でも良いから原料《元素・分子》を入れ、ビフテキのボタンを選択して装置を起動すると、やがてビフテキがお皿に乗って出てくる、そういう時代が来る、と私は信じています。

② 創造は霊界生活のための必須技能

 エネルギーの集中と発散によって創造と破壊を行うというのは、天国の住人ならば誰もが経験し、学ぶことだと前述しました。高度な物については、専門家によって創られますが、簡単な物は自分で創造したり消滅させるのです。指導者からそのための学習・実験・訓練を受けて、次第にその力を増していきます。

 これは霊界では特殊なことではなく、私達が地上で日常生活をするのと同じぐらい当たり前のことです。少し高度になると自転車に乗り、車を運転する、そういった場合、教えられたり教習を受けたりするのと同じです。心の在り方、意念の使い方、集中の仕方、そういうことを学ぶ事になります。

 何故ならば、霊界の生活を自在にし、快適にするために不可欠な事だからであり、その上で本来の精神的な学びを更に高め、また地上にいる魂の兄弟を助け、あるいは地獄から哀れな魂を救済する仕事に就き、更により専門的な様々な研究や職業に就いて、霊界と地上の文明に貢献し奉仕していく、そのような仕事ができるようになります。

 ここで重要なことは、創造と破壊についての基礎を学んでも、何でもできるようになるわけではありません。何故ならば、知らないこと、意識に浮かばないこと、その意義や理念についての認識が定かでないこと、芸術的な感覚や情緒、科学的あるいは技術的な理論と素養、そういう知識や経験が無い場合は、それを創ることはできません。

 意識が希薄なものは曖昧なものしか創れません。当たり前のことです。ですから、地上と同様にあの世にも専門家が沢山いるのですす。例えば、ドレスや衣装、自動車をはじめ様々な装置、著作物、音楽や芸術、建築物など、高度な物づくりは専門家でなくてはできないのです。

 欲しいというものはおおむね手に入るようですが、では、その代金はどうするのかという発想が出てきます。代金は、感謝という愛のエネルギーです。あの世には、地上にあるものは全てありますが、貨幣というものはありません。造り主は感謝というエネルギーを貰って、またより良きものを創って人々に返していきます。

 霊界通信の中から、本テーマに関連した部分を次に紹介しましょう。

③ 創造訓練の具体的な例

 神理の書籍コーナーで紹介してある、***未リンク***「ベールの彼方の生活1」の中から、創造の能力を身につけるための訓練について書かれている部分を紹介します。

-------以下、「ベールの彼方の生活1」から抜粋-------

第二章 薄明の世界


6.念力による創造実験 1913年10月8日 水曜日

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P.95

 こういう風に考えていけば私たちが強烈な思考を働かせれぱ、その念が目に見える客観的存在となって顕現することが当然有り得ることになります。と言うことは、美しいものを意識的に拵(こしら)えることも出来るというわけです。

 何か例をあげていただけますか。

 よろしい。その方がよく分かっていただけるでしょう。
 ある時、こうした問題を勉強している仲間が集まって、どの程度進歩したかを試してみましょうということになりました。そこで美しい森の空地を選び、全員である一つの像を念じてその出来具合を見ました。私たちが選んだのは、後で調べるのに都合が良いように、固くて長もちするものということで象に似た動物でした。象とは少し違います。こちらにはいますが地上ではもう絶滅しました。

 私たちは空地で円座を組み、その動物を想像しつつ意念を集中しました。すると意外に速くそれが目の前に姿を現わしました。こんなに速く出来るものかと皆んなで感心しました。しかし私たちの目には二つの欠点が見えました。一つは大きすぎるということ。全員の意念を加減することを忘れたのです。もう一つは、確かに生きた動物ではあるけど、部分的には石像のようなところもあることです。生きた動物を想像して念じた者が多かったからそうなったので、結局は石と肉の混合のような、妙なものになってしまいました。他にも挙げれば細かい欠点がいろいろと目立ちます。たとえば頭部が大きすぎて胴が小さすぎました。念の配分が片寄っていることを示すものです。こういう具合にして欠陥を知り、その修正方法を研究します。実験してみてはその成果を検討し、再びやり直します。右に紹介したのがその一例というわけです。

 そうして拵えた像から注意を逸(そ)らして語り合っていると、その像が徐々に姿を消して行きます。そこでまた新たにやってみるわけです。私たちは同じモデルは二度と使用しないことにしました。送念の仕方が一つのパターンにはまってしまう恐れがあるからです。そこで今度は果実の付いた樹木にしました。オレンジの木に似ていますが、少し違います。

 こんどは前よりはうまく行きました。失敗点の主なものとしては、果実が熟したものと熟してないものとがあったこと。それから葉の色が間違ってましたし、枝の長さにまとまりがありませんでした。こうして次から次へと実験し、その度に少しずつうまくなって行きました。あたのなたにはこうした学習の楡(たの)しさや、失敗から生まれる笑いやユーモアがある程度は想像していただけると思います。死後の世界には冗談も、従って笑いも無いかのように想像している人は、いずれその考えを改めていただかねばなりません。そうしないとこちらへ来てから私たちとお付き合いしにくい-いえ、私たちの方がその方たちとお付き合いしにくいのです。でも、そういう人でもやがてこの世界の愛に目覚め、至って自然にそして屈託なく振舞うことが出来ることを知り、そうならないとまともに相手にしてもらえないことを悟るようになります。地上というところはそれとは反対のように思いますが、いかがですか。いえ、地上は地上なりに生きてそれなりの教育を得ることです。そうすればこちらへ来て-ただブラブラするだけ、あるいはもっと堕落すれば別ですが-当たり前に生活すれば進歩も速いのです。そして学べば学ぶほど自由に使いこなせるエネルギーに感嘆するのです・

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-------以上、「ベールの彼方の生活1」から抜粋-------

◆ 創造訓練の具体的な例-解説

 私達は誰でも創造能力を持っています。地上の人間でも同様なのです。ただ、地上では物事が実現するために時間が掛かったり、肉体を持っているために大きな精神エネルギーを集中させる事が難しいという事が言えます。また、念の力は人を幸福にも不幸にもさせてしまう力を持っています。ですから、自らが持つ念の在り方・性質がどんなものであるか、注意が必要です。

 旧約聖書にある預言者エリヤの祈りによって、火の石が降ったり、モーゼの祈りで紅海が真っ二つに割れたり、イエスが死人を生き返らせたりしました。モーゼの祈りに合わせて、実在界の大勢の天使達が意念を集中させ、あのような壮大な奇跡を起こしたと思われます。

 この様な奇跡は現代でも可能なのです。しかし、現代という時代は科学の時代ですから、モーゼの時代の奇跡を現代に起こしたとして、果たしてそれが人類の教育や発展に寄与するかどうかといえば、おそらく逆効果となるでしょう。ですから、そういった奇跡を人類を導くための手段として神は採用されない、そう考えるべきであると私は思います。

 次元が高い霊人ほど、すなわち高次元の天使達の持つエネルギーは飛躍的に高くなります。イエス、アールエルランティ、釈迦、モーゼをはじめとする《地球を統括する神々》が持つエネルギーは、ある霊言によると、巨大な仏像に見えたり、あるいは直径10kmぐらいの光の玉と表現されるように、人間の創造をはるかに越えており、非常に巨大です。

 本来、魂は神のエネルギー中継する機能を持っていますから、高次元の天使達が団結して祈りを捧げる時、神から流れ出で来るエネルギーは巨大となり、創造しあるいは奇跡を起こす力もまた巨大となります。

 銀河系宇宙の創造を司る高次元の神は、今でも活発に星雲や星の創造活動を続けているのであり、ハップル望遠鏡は宇宙の創造活動を明確に捕らえ、それらの写真が沢山地球へ送られてきています。

④ 宇宙の創造へ

 人生は今世のみ、一回限りの命であると考えている人間は、霊界の話を架空の話かおとぎ話にしか思いません。しかし、生命とは三次元地上世界と実在界・霊界を転生輪廻する存在であり、実在界が真の存在の世界であるのです。

 私達が科学と呼んでいるものは、実は実在界の科学の投影に過ぎず、現在の地上科学は実在界の科学に比べると、相当にレベルの低い段階にあります。生命の創造や宇宙の創造活動などは、おとぎ話ではなく、現在も絶え間なく行われているというのが事実であるからです。

 「ベールの彼方の生活1」から、宇宙の創造に触れた部分を紹介します。

------以下、「ベールの彼方の生活1」から抜粋-------

第三章 暗黒から光明へ


3 霊界のパビリオン 1913年10月13日 月曜日

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p.118

 そのあと案内の方が再び私たちのところへ来られ、その建物の使用目的を説明して下さいました。ここの研究生たちが“創造”についての進んだ科学的学習を行うためには、創造に使用される基本的成分について十分に勉強しておかねばならないようです。それは当たり前と言ってしまえば確かに当たり前のことです。この建物は研究生が最初に学習する施設の一つで、例の文字盤は上の操作室にいる研究生が白分なりに考えた成分の組み合わせやその比率などの参考資料が記されているのです。

 案内して下さった方はその道の研究で相当進んだ方で、さっきの森のシーンも同じ方法でこしらえたものでした。進歩してくると、その操置を使用しなくても思い通りのものが創造できるようになります。つまり一つずつ装置が要らなくなり、ついには何の装置も使わずに白分の意念だけで造れるようになるわけです。
 
 そこで私たちは、そうした能力が実生活においてどのような目的に使用されるかを尋ねてみました。するとまず第一に精神と意志の鍛錬が目的であるとのことでした。その鍛錬は並大抵のものではなく大変な努力を要するとのことで、それがひと通り終了すると次は同じくこの界の別のカレッジヘ行って別の科学分野を学び、そこでもさらに多くの段階の修練を積まねぱなりません。その創造的能力が本当に自分のものとなり切るのは、幾つもの界でそうした修練を経たのちのことです。その暁にはある一人の大霊、大天使、あるいは能天使(本当の呼び方は知りません)の配下に属することを許され、父なる宇宙神の無限の創造的活動に参加することになります。その時に見られる創造の過程は荘厳をきわめるとのことです。お話を聞いた時はそれは多分新らしい宇宙ないしは天体組織の創造-物的か霊的かは別として-のことかも知れないと考えたりしました。が、そんな高い界のことは現在の私たちにはおおよその概念程度のことしか掴めません。しかも、そこまでに至るには人智を絶した長い長い年月を要することです。もちろんそういう特殊な方向へ進むべき人の場合の話です。どうやらそこを訪れた私たち五人の女性にとっては。向上の道は別の方向にあるようです。

 でも、たとえ辿るべき宿命は違っても、さまざまな生命活動を知りたいと思うものです。全ての者が字宙の創造に参加するとは限らないと私は思います。逢か彼方の、字宙創造神の玉座に近いところには、きっと創造活動とは別に、同じく荘大にして栄光ある仕事があるものと確信しております。

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------以上、「ベールの彼方の生活1」から抜粋------

◆ 宇宙の創造へ-解説

 現在、宇宙で沢山の星が誕生していることが観測されています。また同時に、星にも寿命があることが知られており、その結果ブラックホールが生まれたり、超新星といいますが星が大爆発を起こし、再び宇宙の塵に戻ったりしています。

 《銀河を統治する神・大指導霊・天使達》は創造と破壊をくり返し、宇宙の調和と発展を理念として活動されているのでしょう。新しい星を創り、惑星を誕生させ、そして無数の生物と人類を育むための霊的磁場を形成し続けています。

 余談ですが、私達が観測できるこの宇宙は無数の銀河・星雲を有している一つの風船のようなものです。しかし、その外側に更に無数の風船があり、その風船同士はある細い一定の通路で結ばれているという説があります。

 地球という磁場の中で、生命の進化と調和を司っている地球の神々・大指導霊、更に太陽系全体、そして無数の恒星と惑星を含む私達の銀河、その銀河を無数に含んだのが大宇宙ですから、その大宇宙が更に無数にあるとしたら、何と大きな世界が広がっていることでしょう。

 私達の想像を遙かに超えた世界の話ですが、自己の小さな世界観を少しでも大きくしていくためには、私は知っておくべき事であると思います。様々な学びから神の本質と偉大さを真に理解し、振り返って我が身を観ることで、小さな自己という存在を初めて認識できるのです。

 それは、謙虚さを忘れずにどこまでも悟りを高めていく、大切な秘訣ではないかと思います。

12.魂は神のエネルギーを中継する機能を持つ 

 人間の霊魂とは、神のエネルギー《すなわち神の無償の愛・生命エネルギー》の流れを中継する機能を持ち、中継することで生かされている存在です。

 三次元世界の全ての存在は、霊的世界すなわち高次元世界のエネルギーの投影によって創造され、かつ維持されています。四次元は五次元からのエネルギー、五次元は六次元から、六次元は七次元からという具合に、遙かなる高次元世界から神のエネルギーが中継され、この三次元世界へと注がれています。

 光の分光、エネルギーの流れをコントロールしている存在が、高次元の神であり、この地球、高次元の神、大天使、諸如来菩薩、そして数多くの天使、そして私達の霊魂、これらは全てエネルギーの中継点です。偉大な魂ほど高次元の光を受け取り、それを分光しつつ下次元の霊魂へと注いでいます。そうやって、地獄霊を除く全ての魂へ、神の光・エネルギーは注がれていきます。

 神の光、生命エネルギー、別の言葉で《神の愛》という流れを霊魂は中継しています。高次元の魂ほど、中継するエネルギー、光の量が多いのです。そして、全ての物質と霊魂は神の光を原料としています。私達の肉体の約60%が水分であり、水分無くては一瞬でも生きられないように、霊魂もまた生命エネルギーが無くては生きていけません。

 高次元の神が、生命エネルギーの流れを絶ったとしたらどうなるでしょう。合わせ鏡を御存知でしょう。二つの鏡を合わせることで、両方に無限の世界が広がっていきます。私達は、その何枚目かの鏡の世界に住んでいると考えてみて下さい。もし、神が一方の鏡を取り去ったら、あるいは二つの鏡を閉じたら、私達の住む世界と私達自身は一瞬で消えてしまうはずです。

 私達は神によって生かされている存在であるのです。そして、愛を中継する事が霊魂の存在意義であり、より多くの愛を実践・中継できることが、魂の成長であり、また幸福の真の追求なのです。言い換えれば、悟りの階梯を昇る事に他なりません。

 人間は神の子であり、全ての霊魂は皆兄弟です。目には見えない生命エネルギー・愛という神のエネルギーが流れる糸によって結ばれ、網の目の結び目の一つ一つが霊魂という存在であると言えるのです

13.終わりに

 神のエネルギー、あるいは神の波動という側面から、《死後の世界の本質》について考えてきました。様々な事柄を関連させて考察してきましたので、かなり本質に近づけたのではないかと思います。

 神理というのは立体的であり、低次元から高次元世界まで広がっています。従って、様々な切り口と断面があり、一断面の中にも広大な世界があります。また時代と共に、あるいは科学の進歩と共に価値観が変化していき、神理も《表面的な教えとしては》次第に変わっていくでしょう。また地球霊団と他の惑星霊団を比較したとき、その神理に異なる点も多いはずです。

 しかし、《進歩と調和》という二大原理を基軸とする、神のエネルギーが変転する全宇宙・時空の中で、霊魂もまた輪廻転生をくり返しつつ進化・成長をしてきました、現在もしており、これからもしていくでしょう。

 これが、この世とあの世を貫く真の姿であり、本テーマである《死後の世界の本質》です。



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