ヨハネの黙示録・全ての謎が分かる

The Seven Seals

◆◆◆ 真我と偽我 ◆◆◆
2009.05.08 窪田光治

 真我と偽我という言葉がよく使われています。《本当の自分 = 真我》と考えると、《偽の自分 = 偽我》ということになりますが、この様に教条的に考えると混乱するだけでなく、この世の修行というものが、方向として曲がっていくように私は思います。

 真我と偽我は分離された別のものではなく、心として一つであり、従って現在という今、貴方の心はどちらにでもなれるのです。

1.私の定義

真我  迷い、悩み、執着のない心の状態、心が解放された状態を言う

偽我  迷い、悩み、執着によって心が乱されている状態、心がとらわれている    状態を言う

 心は《一念三千》、《握一点、開無限》という表現で例えられるように、本来、自由自在なものです。ですから、真我と偽我という二つの心があるのではなく、心はあくまで一つであり、それが真我の時もあれば偽我の時もある、ここをまずしっかりと認識することが大切です。

 真我を求めて特別な修行するという方もおられますが、私の説によれば、現在ただ今、貴方は真我になれる、そういう意味を私の定義は物語っているのです。

2.真我と透明度

 この世で、肉体を持って生活している限り、生物としての自己防衛本能があります。食欲、睡眠欲、性欲などですが、更に他の動物にはない高度な意識が備わっているために、権力欲、支配欲、自己顕示欲、名誉欲などに発展し、これらがベースとなって、嫉妬、猜疑心、妬(ねた)み、恨み、嫉(そね)み、などありとあらゆる迷いが次から次へと押し寄せ、人の心を惑わせようとします。

 その迷いが、心の底から貴方に話しかけてきます、いわゆる《己心の魔》ですね。どんなに心を探究し反省しても、生きている限りは生物としての本能と欲から完全に逃れることはできません。従って、逃れる努力をするのではなく、うまく付き合い、コントロールすることに力点を置くことが大切です。

 高橋信次氏が、生前、「まだ私を信じてはいけない」、死を目前にして、「もう私を信じてもいいよ」、と弟子達に話したことを私が知ったとき、私は本当にうれしく思いました。やはり高橋信次氏は真に偉大だったと、そう思うわけです。人間としての限界をよく知っておられ、また高橋氏もまた人知れず苦悩することがあったのではないかと思います。

 真我について更に別の表現をすれば、真我とは無色透明の心、波風のない心の状態ということになります。波風は比較的判りやすいですが、無色透明という部分がわかりにくいかも知れません。私が言いたいのは、真我には深さがある、という事です。波風が無く、無色であるほど、また透明度が高いほど、心の奥深くまで観ることができるという意味です。

 反省、自己観察、自己改造により、波風のない心の状態を保つことは、比較的早く実現できると思います。それは、自分で波風をほぼ確実に感じることができるからです。感じることができるなら、努力次第で解決しやすいわけです。

 しかし、《無色》と《透明》は違います。色がついてる事は、自分ではなかなか判定できません。また、透明度についても何処まで自分の意識の深さを観ることができるか、自分ではなかなか判らないはずです。この二つを客観的に観ることができる方は、自分の守護霊・指導霊または神以外には居ないでしょう。

 ですから、波風のない心を真我の入り口として、無色透明な心を究極の真我と定義できます。真我の入り口に立つことがまず実現できたら、究極の真我を求めて心の探究は続きます。究極の真我とは神へ一歩づつ近づくことであり、別の言い方をすれば、魂の成長、進化、霊格の向上、皆同じ意味です。

3.真我という言葉を忘れること

 しかし、この世で肉体を持つ以上、その人の真我に限界があることもよく知っておく必要があります。そうでないと、反省地獄に陥ったり、自分を許せなくなったりしていくのではないかと思います。私は、真我を追求する気持ちが強すぎると、それが執着となり、かえって魂を縛ってしまうのではないかと思います。さすれば、もはや真我を深めていくことは不可能になります。

 逆説的ではありますが、「真我、真我、真我・・・・」と求めるのではなく、むしろ真我という言葉を忘れ、日々の仕事や生活の中で、自分の心の在り方をコントロールしていく努力をする方が極めて大切であり、結果的にその方が真我の程度が次第に深まっていく、そのように私は思います。

 死んで霊となり天国へ帰るならば、誰でも真我になるのです。この世で何故肉体を持ち、転生輪廻を重ねているのか、その意味をしっかりと理解すれば、仕事や生活の中で様々な経験とその生き方の中にこそ大切な修行があり、それが智慧の獲得となり魂の成長となっていく、結果的にあの世に帰ったとき、その人の真我はより深まっている、そういう結果となって実を結ぶはずであると私は思うのです。

4.真我も偽我も今の貴方自身である

 真我と偽我について更に考えを深めていきたいと思います。今まで何度か、真我と偽我という二つの心が独立して存在するのではない、と強調してきました。

 つまり、真我も偽我も自分自身であり、《己心の魔》も自分自身です。誰でも、真我の状態に何時でもなることができるのです。《己心の魔》は自分以外の魔・悪霊と通じることになってしまいますので、要注意ですが。

 なぜ、上記を私が強調するかというと、真我とは簡単になれるものではない、反省行をしっかりとやって一定の心境に到達しないと、その心を獲得できないと考えている人が多いのではないかと思えるからです。

 その考え方を進めると、表面意識・顕在意識は偽我の固まりであり、日々の生活は偽我で生きている、すなわち今の貴方という存在は偽我そのものである、という結論になるのです。私は、そうではないと主張しています。ここに、大きな視点の違い、大きな姿勢の違いがあるということを、まず読者にしっかりと認識していただきたいと思います。

5.真我は無限の深さを持つ

 しかしながら、高度の真我を獲得する修行、というものを私は否定しているのではありません。《2.真我と透明度》と題して述べましたように、真我の奥行きは非常に深く、無限の深さがある、三次元・四次元・五次元・・・究極の神へと、正に無限です。

 ですから、心の透明度を高める努力に限界はないということになります。何処までも透明度を高くしていくのが釈迦の八正道であり反省だと思います。反省というと、悪いことを反省するのが反省であるとお考えの方がおられるかも知れませんが、それは入り口の話であって、[反省の目的]で解説しましたように、反省の深さもまた無限なのです。

 無限の透明度を追求するためには、無限の努力が必要です。それを支えてくれるのが、釈迦の八正道です。

6.真我と偽我という二つの心があるように見える理由

 人間の心はエネルギーであり波動ですから、《一則多、多即一》という言葉にあるように、真我と称する状態と、偽我と称する状態は、瞬時に入れ替わり、交互に出てきます。

 自分の心を観察している時、その観察している人は誰か、その観察している人を観察しているのは誰か、・・・・・合わせ鏡のように、無限の人格があるように見えます。ここで、魔・悪霊の作用が働くと、本当の二重人格、多重人格となって現れてきますが、自分ではなかなか気がつきません。

 二つのことを同時に考えたり、思ったり、念ったりはできません。しかし、交互に出てきて、瞬時に入れ替わるために、多重人格のように感じることができるのです。

 余談ですが、高度の霊的能力である真の《一則多、多即一》では、九次元霊ともなると、同時に多数の場所に出現できると言われています。霊はエネルギーであり波動ですから、波動の性質として説明ができます。コップの水を幾らでも分割できる事に似ていますし、またお釈迦様が髪の毛を抜いて息を吹きかけると、全部が自分の分身になったりする喩え話も関係しています。詳しくは別の項を参照して下さい。

7.人間罪の子思想/神の子思想

 私は詳しく知りませんが、人間罪の子・原罪という考え方は旧約聖書にあり、アダムとイブから発生した思想だと聞いています。キリスト教に心酔している方は、この思想からなかなか逃れられないようです。

 私はこう思います。旧約聖書の時代、その時代背景が前提としてあるために、神はこのような方便を使って人間を導こうとされたと思います。当時の法は権力であり、力の時代ですから、善悪という尺度で世の中が調和されていたのではありません。

 原罪というのは、本来、カルマの事であり、それは罪でも何でもありません。詳しく話すと本題から外れますが、一口で言えば、魂の進化の過程で生じるでこぼこ、育ち盛りの子供がいろいろなトラブルを起こすに似て、成長過程の不調和を原罪とそう喩えて言ったのです。

 現在は違います。人間は神の子であり、皆兄弟である。人間は、本来、善である。そういう教えに変わってきています。それは、事実であるからであり、人間は神を理解できる段階に進化してきたからです。そして、罪の子思想では更なる成長はもう期待できないからです。人間は、神の属性を全て持っています。それを認識できたとき、人は大きく変わるはずです。

 私が、真我に誰でも瞬時になれる、そう主張しているのは《人間は神の子》であり、本来、善であると考えているからです。第4項で述べたように、表面意識は偽我であるという考え方は、人間罪の子思想から来ていると思えます。

 真我と偽我の定義によっても変わってきます。しかし、私がそう主張するのは、その方が人に希望が与えられるからであり、日々の努力に励みが出るからです。特別な修行をしなくてもできるのです。

8.毎日の生活と仕事が真我への近道

 迷いや悩みにおいて、《迷いや悩みでは無くす方法、裁断する方法、原因を取り除く方法》、いろいろとありますが、心の探究が進めば日々真我で暮らすことが可能です。少なくとも、自分で観察していれば、真我と偽我が入れ替わることが判ります。そうすると、真我の時間を長くしていく努力ができるはずです。

 芸術、スポーツ、何でも良いのですが、人間が善念を持って、真剣に何かに取り組んでいるときは、自分という存在すら意識にはありません。勝ちたいとか、うまく演奏したいとか、見せたいとか、我という意識があると、成功しません。ですから、集中するという意識すら通り越して、ただ意識だけがある状態、それは無我です。

 真我は、無我に通じ、神に通じます。何故ならば、人間は神の子だからです。

 現世で肉体を持ち転生輪廻を重ねていく理由は、魂の進化であり、生活、仕事、スポーツその他を通じて真剣に業(わざ)を磨く中で、智慧を獲得し、心も練られていく、さすればあの世に帰って後、より真我が深まっていることに気がつくはずです。

9.終わりに

 《真我と偽我》という言葉の真意を誤解している人が多いと思いましたので、自説を展開しましたが、おそらく反論や別の考え方もあるでしょう。しかし、どちらが合理的か、また人に希望と生き甲斐を与えられるか、そういう視点で考えていただければ幸いです。



御自由にリンクを貼っていただいて結構です
LinkIcon
http://www.the-seven-seals.jp/

The free background
photographs are acquired from
http://www.h3.dion.ne.jp/~xosada/index.html