1.第一の霊的な罪
1-1 自ら魂の成長のための努力をしたか
《魂の成長とは何か》というテーマに関しては、本題から外れますので詳細は別の項目として説明することにしますが、進歩と調和の二大原理から言えば、魂の成長を語るにおいて《愛の進化》という視点が必要不可欠です。すなわち、愛する愛、与える無償の愛、人を活かす愛、人を許す愛、・・・というのが、進化する愛です。
霊的な罪とは何かというテーマに対しては、色々な切り口があるでしょうし、色々な説明をすることは可能だと思います。しかし、私が《最も大事な点》と考えている《魂の成長》という視点から論じてみることにします。まず①~⑤を確認してください。
1 神は、自らのエネルギーを分光させて人間の魂を創られた。よって、人間は神の子であり、生まれながらにして神の属性を持っている。 |
ここで大事なことは、《神は、我が子が自ら成長するために努力することを望んでおられる》という事です。
ということは、《平穏無事にいわゆる善人として、幸福な一生を終えた。》というだけであるとするならば、神は果たして喜ばれるか、こういう問題を考えてみましょう。
1-2 マタイ【25-14】3人の僕(しもべ)の例え話
① マタイ【25-14】原文より抜粋
マタイ【25-14】に次のようなたとえ話をイエスはしたとあります。少し長いですが、ここに霊的な罪を考えるヒントがあります。
14 ¶また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕(しもべ)どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 |
以上、日本聖書教会1975 /新約聖書より抜粋
② マタイ【25-14~30】のキーワード解説
キリスト教者はこの話をどのように説明されるか、私は知りません。キリスト教は輪廻転生を認めておりませんから、たぶん私のような説明はしないと思います。
これは天国というものを、イエスが人々に説明した喩え話です。そこで、
● キーワード
ご主人 |
神とします。 |
僕(しもべ) |
人間とします。 |
タラント |
才能または智慧の蓄積とします。 |
ご主人が旅に出る |
僕(しもべ)が下界に生まれるとします。 |
もうける |
心の修行をして智慧を獲得するとします。 |
● [24 まかない所から刈リ、散らさない所から集める酷な人] の意味
このままだと全く意味不明です。
英語の原文から読み取ると、「まかない」とは種を蒔かないという意味の英語が使われており、「散らさない」とはもみ殻を吹き散らさないという意味の英語が使われています。
「酷な人」はhardという単語が使われており、「理解しにくい」とか「難しい」とかの意味がありますので、その全体の意味は、
原文 24 まかない所から刈リ、散らさない所から集める酷な人 |
意訳 24 種を蒔かないのに刈取りをし、もみを飛ばさないのに脱穀した穀物を得ることができる、ご主人はそういう不思議な力を持ったお方である。 |
というのが、正しい翻訳であり、また真意であると思われます。翻訳された聖書の日本語だと何の事やらさっぱり理解に苦しみますが、私の説明でなるほどと納得される方が多いのではないかと思います。
従って、ご主人様は神様である、という事が証明されました。前置きが長くなりましたが、ここから、本題に入ります。
③ 元手(タラント)をどのように使うか
僕(しもべ)達は、元手となる智慧を携えて、下界すなわちこの世に生まれます。能力のあるものも、能力の少ないものも、その能力・智慧はもともと神より元手として授かっているのです。
ある者は、五タラントの智慧を預かっており、努力して更に五タラントの智慧を獲得し、そして天国へ帰り、神に報告します。神は、少ない元手・智慧にも関わらず、良く努力したと褒めます。
またある者は、二タラントの智慧を預かっており、努力して更に二タラントの智慧を獲得し、そして天国へ帰り、神に報告します。神は、少ない元手・智慧にも関わらず、良く努力したと褒めます。
そして、一タラントの智慧を預かった者は、神を恐れる余り、すなわち商売に失敗して元手を失い神から《叱られる》ことを恐れて、一タラントの智慧を使うことをせず、すなわち地上で何の努力・チャレンジもしなかった。すなわち一タラントの智慧を使って更なる智慧を稼がなかったという意味です。そして天国へ帰えり、神に報告します。
④ 《歯がみをする》の真意
30『この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んり、歯がみをしたりするであろう』 |
お前は私が授けた一タラントの智慧を、私を恐れ、失敗を恐れ、チャレンジをしなかった、この《臆病者》、この者を暗いところ、すなわち《地獄で反省》させよ、と神は言います。
そこで、初めて、神の真意を知り、この僕(しもべ)は《ああ、そういう意味だったのか、せっかく地上に生まれたのに、失敗した、悔しい、私は愚かだった》と、反省所( 地獄の一丁目)で泣き叫び、歯がみをすることになるのです。
死んでから後、地上に生まれた意味を知り、後悔するという喩え話です。これは神に叱られるという事ではなく、自分自身の魂を汚すことになるのです。1-⑤項で確認しましたが、守護霊様と魂の兄弟の期待を裏切ることになります。
霊的な罪とは何か、以上が私の第一の説明です。
2.第二の霊的な罪
2-1 《持っている人【25-29】》とは何を持っているのか
ところで、
29『おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。』 |
の意味を読者はどのように理解しますか。賢明な読者は、今までの説明から、推測できると思います。先の、三人の僕(しもべ)とご主人様のたとえ話の結論として、神が述べられた言葉ですから、大事な教訓・神理が書いてあります。
前回までの私の説明の中で、神は人間に何を期待し、何を望んでおられるのか、そういう説明をしました。簡単に言えば、魂の成長です。魂の成長は、自ら獲得するものであり、本来、神や人から与えられるものではありません。
これは、魂の成長に欠かせない原理について教えたものなのです。
① 厳しさの勇気
では、新しい環境で、時代を超えて様々な経験を積む上で、何が必要でしょうか。
人は、自らの肉体を傷つけたり、病になったりすることを恐れます。同様に、自分の心が傷つけられることを恐れます。また、神を信じる方は、神を恐れる余り、自分を小さく小さくしよう(真の謙虚さとは異なる)と、また善人(弱き善人)であろうとします。
しかし、与える愛を実践し、人を活かそうとすれば、時には厳しく見えることをしなくてはなりません。例えば、子供がアイスを欲しがる、チョコを欲しがる時、親は欲しがるままにあげるでしょうか。
皆さんも経験があると思います。時には、我慢しなさい、と教えるでしょう。愛とは、だだ単に与えるだけでは、その人を駄目にしてしまうのです。その人の心が成長するように、適宜に必要な時に必要なだけ与えていくのが、真の与える愛です。時には、子供が転んで怪我をし、泣き叫んでも、自ら立ち上がるまで、勇気を持って温かく見守るのが、親であり神であります。
② 選択の勇気、失敗を恐れない勇気
また、この世は善悪が明瞭に見える世界ではありません。そして、善でも悪でもないものが沢山あります。善になるか、悪になるか、その人次第である、そういうものも多いのです。お金の使い方などはその一例です。
皆さんの生活の中で、善か悪か判断できない、またそうして良いのか、良くないのか、右へ行けばいいのか、左へ行くのが良いのか、選択肢が三つもあると、さてさて考え込むことが多いのが、私達が生きている世界です。
その中で、常に何かの選択をし、成果を得ていかなくてはなりません。その選択の連続の中で様々な判断をしなくてはなりません。この時、失敗を恐れて易しい選択(妥協)をするか、失敗を恐れず難しい選択(理想を追求)をするか、その選択はその人の心を試すことになります。
困難であればあるほど失敗の可能性が高くなり、また苦しみを味わうことになります。しかしその困難な道は智慧を獲得する大きな切っ掛けとなるものです。人生の大事な問題であればあるほど、失敗や苦しみを恐れない勇気が必要です。
④ 過ちを認める勇気
自分の過ちや誤りを素直に認めない方がおられます。自分という魂の領域を侵されると勘違いし、その恐れの余り、認めようとしないのです。これも勇気の欠如ではないかと思います。過ちは過ちとして素直に認め、謝罪するのが真に自分の魂を育てる事になるのですが、その勇気が無く、結局は自らの魂を傷つけている事になります。
⑤ チャレンジする勇気
魂の成長には勇気が必要なのです。失敗を恐れない、自分の肉体や心が傷つくことを恐れず、色々とチャレンジする勇気です。人を育てるのも、自分を育てるのも同じです。魂の進化と成長のために、弱い善人ではなく、強い善人を目指すべきなのです。
チャレンジして、仮に失敗したとしましょう。例えば、政治家は堕落する可能性の非常に高い職業ですが、それに挑戦し、この世に生まれたとします。努力の甲斐あって、念願の政治家になって総理まで務めた。しかし、初心を忘れて金まみれ真っ黒な心となって、結果は地獄で呻吟することになった。
しかし、地獄で深く反省し、首尾良く再び天国に戻れたとします。そして、また挑戦します。そして、地獄に堕ち、またはい上がります。そうやって、魂の足腰が強くなり、やがて堕落せずに優れた政治家となり、死後まっすぐに天国へ帰ることができるようになっていくのです。
2-2 臆病者
この世の半分の方が地獄へ行くという統計がありますが、精神世界に興味を持つ方は、もちろん、その可能性は低いでしょう。しかし、《地獄へ堕ちる事を恐れている方》は、貴方は危ないと言っておきます。
最も、何も考えない人でも、墜ちる人は墜ちます。しかし、地獄行きを心配して「くよくよ」するような気の弱い人は、たとえ《何一つ悪いことをしなくても一番危ない》のです。自分自身の魂を傷つけることになるからです。
積極的に自分を鍛え、魂の成長のためには失敗を恐れず、勇気を持ってチャレンジすることを神は喜ばれるのです。チャレンジの結果、地獄に堕ち、地獄で呻吟している様を神は観たとしても、慈悲の涙を流されつつ、我が子が再び天国の世界へ自らの力ではい上がってくるように願っておられるのです。
ヨハネの黙示録 [21-8]に
黙示録 [21-8] |
第一の死は肉体の死を意味し、第二の死は地獄に堕ちる事を意味します。その地獄に堕ちる者の筆頭に《おくびょうな者》と書かれているのです。
2-3 マタイ【25-29】の真意
従って、マタイ【25-29】は次のような意味になります。
マタイ【25-29】原文
29 『おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。』 |
マタイ【25-29】の意訳
29 『おおよそ、勇気を持っている人は更に智慧を獲得して、いよいよ心が豊かになり魂が成長するが、勇気を持っていない人・臆病者は、今まで獲得した智慧までも失い、魂としては退化することになるだろう。』 |
以上が、霊的な罪の第二の説明です。
3 終わりに
自分の魂を自分で傷つける(= 第一の霊的な罪)ということは、神から預かっている魂を傷つけ、神の願いに反する行為(= 第二の霊的な罪)であるのです。神の子として、親不孝者というわけです。すなわち、《自分に対しての罪、更に神に対して大いなる罪》である、これが私の結論です。
御自由にリンクを貼っていただいて結構です。
http://www.the-seven-seals.jp/
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