ヨハネの黙示録・全ての謎が分かる

The Seven Seals

◆◆◆ 心の構造 (心の働きと仕組み) ◆◆◆
2010.01.07 窪田光治

まえがき

1.非常に高度な「心の作用と働き」
1-1 心の階層 1-2 知覚 
① 肉体を持つ人間の知覚 ② 霊となった人間の知覚
1-3 念い 1-4 記憶・感情・本能 ① 記憶 ② 感情 ③ 本能
③-1 この世の本能 ③-2 霊としての本来の本能 

1-5 知性・理性・感性・悟性 ① 知性-知識を基にして本質を知る作用と能力である。
② 理性-理論の展開から本質を知る作用と能力である。
③ 感性-理論的に説明ができない本質を直感(感じる事)で知る作用と能力である。
④ 悟性-理論的に説明ができる本質を直感的に知る作用と能力である。

1-6 智慧・認識力 
2.三次元と四次元を貫く「潜在意識と顕在意識-魂の兄弟」
2-1 輪廻転生と幽体離脱 2-2 魂の兄弟

2-3 想念帯により分離された意識
2-4 最も多い霊的影響/憑依 
3.高速で働く「心」
3-1 脳とコンピュータ 3-2 
心とコンピュータ 3-3 光と霊波の速度 3-4 真我と偽我 
① 人間は自民自答する能力を持つ ② 高速の心と三つのキャンバスの喩え 
3-5 一念三千 3-6 一則多・多即一(いっそくた・たそくいつ) 
3-7 開無限・握一点(かいむげん・あくいってん)
4.高次元の神へと続く「心の構造」
4-1 霊はエネルギーであり波動である
4-2 波動と次元 4-3 神と次元 4-4 魂の誕生 4-5 神の目から見た幼い魂達
 4-6 魂のタマネギ構造 4-7 進化と次元の開拓 
① 波動と個性 ② 波動と霊性
5.心の偉大さ
終わりに

まえがき

 『心とは何か』という大きなテーマで、下記に示す様々な角度から考えてきました。

① 心は貴方自身である
② 心はどこから生まれてきたか
③ 死んだら心はどうなる
④ 何のために生きるのか
⑤ 潜在意識と顕在意識
⑥ 真我と偽我
⑦ 心の構造

 そして、本章の[⑦ 心の構造]というわけですが、《心の作用と働き》についてはまだ具体的に何も触れないできました。《心の作用と働き》を考えるとき、真にその偉大さに気づくのではないかと思います。皆様は心の偉大さについて考えたことがあるでしょうか。このテーマを一緒に見ていくことで、私の意図することが次第に分かってくると思います。

 《心の偉大さに気づく》ということは、神の偉大さを知る事に通じます。神の偉大さを知るということは、神の心の一端を理解する事に通じます。神の心の一端を理解するということは、神と導通することに通じます。神理に関する知識を単なる知識として取り扱うのではなく、認識力を高めていくという意識を持ち、物事の本質を洞察することが極めて大切であると私は思います。

 世の中に頭のいい人は沢山います。そして、それに比べて「自分は駄目だ」と思う人も多いと思います。しかし、記憶力が良いとか、計算が速いとか、そういう頭の良さは余り自慢することはできません。何故ならコンピュータが最も得意な領域であり、誰でも手軽にパソコンを操れる時代だからです。

 しかしコンピュータは永遠に人間の真似はできないのです。人間は誰であっても、すなわち「頭は良くない」と思っている貴方であっても、実は神に等しい頭脳・心を持っていることが、この章を読むことで理解されると思います。自分の心の偉大さに気づいて欲しい、これが私の願いです。

.非常に高度な「心の作用と働き」  

 《心の偉大さ》を知る上で、まず《心の作用と働き》について考えてみたいと思います。心の作用については、仏教や哲学だけでなく精神科学の世界などでいろいろと定義されているようです。

 言葉の定義、由来、ニュアンスの違いなど様々な説があり、これに立ち入ることは物事の本質を見失う恐れがありますので、私独自の考え方を述べてみたいと思います。読者は、これを参考にし、更に独自の洞察力を加味して、本テーマを深く認識していくことができれば幸いです。

1-1 心の階層

 肉体と全く同じ形状と組織を持った幽体が肉体の下にあり、その中に同様の形状をした霊体が入っています。これを魂と呼んでいます。そして、胸の付近にその霊体の中核としての心があります。従って、霊が肉体という潜水服を着たような姿を人間と呼んでいる、という喩えができます。

 本来、心はある種のエネルギー体であり、姿も形もないものです。従って、空間的にも視覚にも捕らえることはできません。しかし、漠然としたままでは理解が進まないのも事実です。そこで、便宜的に心の作用と働きとして、皆様がよく御存知の様々な言葉が用いられ、一定の意味づけがされています。

霊波の発信
↑↑↑
念い ---------→ 心の発信機能
意志・エンジン 智慧・認識力 心の総合機能
知性・理性・感性・悟性 心の中核機能
記憶・感情・本能 心の基本機能
知覚 ---------→ 心の受信機能
↑↑↑
刺激・情報

 《心を作動》させ統括している《意志》、あるいは《無意識???の意識》というものがあり、これは生命としての原点、つまり自動車で言えば《エンジン》、電気で言えば《発電機》のような喩えができると思います。意志が様々な機能を司り、制御しています。

 この《エンジン》に相当する部分については私も分かりません。生命の秘密、神の領域に属する事だと理解しています。《無意識???の意識》と言ったのは、動物や植物また微生物に至るまで、この《エンジン》があると考えるからです。この《エンジン》の燃料は、神の光、生命エネルギーであることは言うまでもありません。《エンジン》についてはこれ以上触れないことにします。

 便宜上、空間的なとらえ方として、心の浅いところ、表面に近い???部分に《受信機能・発信機能》があり、より深いところに智慧や認識力があると理解します。すなわち、心の中核部分・総合機能ほど高度になっていくと考えます。そこで、順番にそれらの意味を考えてみましょう。

1-2 知覚

 知覚や本能そして感情については、肉体を持つ人間と霊となった人間を区別して考える必要があります。まず肉体を持つ人間の知覚とはどういうものか、まず確認してみましょう。

① 肉体を持つ人間の知覚

 知覚とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などを言います。体性感覚とは皮膚感覚、内臓感覚などの事です。

 しかし一口に視覚といっても、人間は様々な微妙な色と明暗の変化を見分ける能力があります。実際には、眼球の中にある網膜が光を感じるセンサーとして働き、その信号が神経を介して視覚を司る脳に達し、そこで霊的な信号に変換されて《心の視覚を司る部分》へと到達します。

 光の明暗の強弱、微妙な色合いを持つ《映像として認識》すること、映像の中の《色や形の重みとバランス》を認識することなどは、純粋に《心の作用》であり、眼球や脳には、そういう機能は一切ありません。単に、センサーと変換器の役割しかないのです。

 この視覚による認識能力一つとっても、驚くほど高度な機能です。現代の最先端の科学技術では、簡単な形状を認識することができるようになっていますが、人間と同等の知覚を持つ装置又はデバイスを製作するに至るためには、数百年に及ぶ科学技術の進化が必要だと思います。

 他の知覚についても同様です。例えば皮膚感覚を考えてみてください。全身の皮膚のどの場所でも爪楊枝でつつけば、それを知覚することができます。その一点をとっても既にセンサーが複数あるわけであり、これを全身に張り巡らせるとしたら一体何個のセンサーが必要か、考えてみましょう。

 ネットで調べると、「身長: 170 cm 体重: 50 Kg ---体表面積は1.568571㎡です」と出ました。仮に1平方ミリメートルに一個の圧力を感じるセンサーを並べると、1,568,571 個必要になります。156万個です。実際はもっと沢山あるだろうと思います。

 皮膚感覚は、圧力を感じる以外に、温度や《こすれる感覚》などに対する知覚も持っていますから、工学に携わる筆者としては全く驚く限りです。

② 霊となった人間の知覚

 肉体がないのであるから、人間のような知覚はもうないのではないかと思う方がおられるかも知れませんが、そうではありません。前述のように、肉体の感覚器官は単なるセンサーであり、その信号を束ねる脳は情報を霊的信号に変化する機能しかないのです。

 従って、肉体が持つ感覚器官の信号は全て心と繋がっている事になります。ですから、人間が持つ知覚機能は霊となっても全てを持っていることが明白です。ただし、肉体が無い以上、皮膚感覚などがあり得るのかという疑問が生じます。

 しかし、霊界通信の本などを読んでみると触覚らしきものがやはり有り、《霊界の物体???(固定されたエネルギーの一種)》を触った感触はあるようです。誠に不思議に思いますが、エネルギーにもいろいろな状態と段階があり、念・意識の作用で創造と破壊が行われます。ですから、霊界にも風景や物質に相当する物が存在するのです。

 私の個人的な経験として、うたた寝しているときのことですが、夢ではなくまぶたの裏がハッキリと見えたことが何度かあります。まぶたを閉じているという意識があるにもかかわらず、明瞭に見えるという経験です。夢の中で、カラーの鮮明な風景を見たことも何度かあります。

 毎晩、幽体離脱して人間は霊界を見て来ているのですから、皆さんも当然見ているはずです。余談ですが、私は時々夢の中で考えていたり、ああ今は夢を見ているのだなという意識があったり、そろそろ帰らなきゃいけないと思った瞬間に目が覚めて、現実に戻ることが時々あります。

 霊になると、意識も感覚も10倍ほど敏感になると言われています。ですから、視覚も聴覚ももっと繊細に見分け聞き分けられるようになるということです。それは、原理として考えるならばあり得る話で、人間は肉体という潜水服を着ているために、霊としての知覚は1/10に制限されていると言えます。

 10倍に感覚が敏感になるということは、霊界の風景、霊人、建築物、動植物などは、地上では考えられないほど美しく、優雅で、香しいものだということです。光も七色だと思っているのは人間だけであり、霊界の色の種類は遙かに多いと霊界通信の本などには書いてあります。

 可視光線というのは、約400nm~800nm(ナノメーター)の波長を持つ電磁波であり、この範囲を下回っても超えても、肉体の目で見ることはできません。しかし、電磁波の波長は原理としてゼロから無限大まで存在します。高い霊格を持つ霊人ほど、見える光の範囲が飛躍的に増大すると考えられます。

1-3 念い 

 心の発信機能という面から《念い》というものを考えてみましょう。《念い》という言葉は、特定のエネルギーの発信を意味します。この念いというエネルギーは、無意識に発信する場合と意識的に発信される場合があります。

 心はエネルギーですから、その心の作用は波動となってさざ波のごとく、休むことなく常に周囲に広がっていきます。霊的波動すなわち霊波は光の速度を遙かに超える高速で伝わります。さざ波のごとくといっても、宇宙的レベルで見たときの話であり、人間界においては瞬時に伝わるでしょう。余談ですが、霊波はこの大宇宙を駆けめぐる、と表現できるほど高速であるために、神は宇宙を創造し、そして統括できるのです。

 人々の様々な想念活動は霊波となって全世界・全宇宙を駆けめぐります。人々の想念の性質がマイナスであると人間界はその悪想念で充満します。その悪想念には様々な種類があり、これを波動の違いとして考えるならば、可視光線と全く同様に色がついて霊人には見えるであろう、と容易に推測できます。

 実際に、天界から天使がこの地上を見るとき、見るも恐ろしい毒々しい雲が渦を巻いているように見える、と「ベールの彼方の生活」には記されています。唯物論が人間界を支配し、神の実在を忘れ、心の指針を失った現代は、正に悪想念の雲が毒々しく渦を巻いている、それが真実の姿なのです。一方、この地上がプラスのエネルギー、善念のエネルギーで満たされるとき、地上は理想的社会・ユートピアへと変わっていくでしょう。

 無意識な想念に対して、意識的な想念の発信を「祈り」と言います。これが悪念であると「呪い」に変わります。無意識の想念は、さざ波のごとく周囲に広がりますが、祈りと呪いは「宛先のあるエネルギー」であり、強烈なレーザー光線にも例えられ、また電話やメールにも例える事ができます。

 霊的世界で、祈りや呪いのエネルギーは、一つの物理的な力として作用し、創造と破壊を行います。また、宛先の相手が無視して素通しさせない限り、相手に必ずそれが届きます。ですから、無意識の想念にしても、意識的な集中想念にしても、心の作用として考えるとき、想念活動は諸刃の剣に例えられるでしょう。それ故、心の働きについて、よくよく自己点検が大事なのです。

 相手が考えていることや感じていることを、私達肉体を持つ人間はほとんど知ることができません。それは、魂・心が肉体という潜水服を着たような状態にあり、霊的知覚が肉体からの感覚信号に常に攪乱されているからです。そのために繊細な霊的な波動を捕らえることができません。結局、相手の事や外界の事を知るために、肉体の感覚器官を頼るようになっています。

 一方、心の作用は霊波となって、潜水服を素通しに貫いて、この宇宙を駆けめぐっているのが真実です。従って、祈りは神に通じ、呪いは悪魔に《必ず通じる》わけです。

 以上の原理から言えることは、肉体諸器官からの信号に撹乱されず、霊的な微弱信号を捕らえる感覚を磨けば、霊波を捕らえることができるということになります。人間は誰でも僅かに霊波を捕らえることができます。それを直感、霊感、インスピレーションと言います。また、もっとクリアーな信号を受け取ることができる人を霊能者と呼んでいます。

 このように、心の作用は、宇宙を駆けめぐる霊波を常に発信しているのであるという認識を持ってください。従って、心は常に誰かに観られている事を意味しています。誰かとは神であり、守護霊であり、場合によっては悪霊・悪魔である事になります。

1-4 記憶・感情・本能      

① 記憶

 記憶力に自信がありますかと問われると、自信ありと応える人はほとんど居ないでしょう。人間は確かに、百科事典のような関連のない内容を、正確に記憶するのは苦手なようです。特に、興味が無いこと、嫌なこと、ごく普通の日常的な出来事などは記憶に残りにくい傾向があり、また人によっても大きな差があるようです。

 しかし、連想ゲームのように過去の事を映像付きで突然思い出したり、興味があることは驚くほど事細かく記憶できるのも事実です。また日常、意識しないで使用している記憶は膨大です。人間を機械と考え、例えば、朝起きてから歯を磨いたり、食事をしたり、いろいろと準備をして出勤する、そして駅まで歩いて電車に乗る・・・・・、こういう事だけでも、気が遠くなるような記憶容量が必要になるでしょう。

 そこで、筆者も調べてみたところ、こんな記事をインターネットで見つけましたので、紹介します。以下引用

http://q.hatena.ne.jp/1217904586
 世界には、物事を忘れられないという病気があるそうです。自分の見たもの聞いたものすべてを記憶しているそうです。

http://www.telegraph.co.uk/news/1940420/The-woman-who-can-rememb...記事によると、14才のときから現在まで28年間のすべてを記憶しているそうです。解像度がわかりませんが、1秒の記憶を1MByteと仮定すると、365×28×24×60×60×0.7 ≒620TB (0.7は起きている時間として)もし、70年間を記憶し続けたとしたら、1.5PBぐらいでしょうか。解像度はまったくの仮定なので、無圧縮ならさらに10000倍ぐらいになるんじゃないでしょうか

《物事を忘れられないという病気》という部分をどのように受けとめるかですね。この方も、そして多くの科学者も、人間には本来そんな能力はあり得ないので、全く不可解という立場だと思います。

 しかし、私はそうは思いません。何故かというと、本来は誰でもそういう能力を持っているのですが、肉体を持ちこの世で生きていく上で、神はその能力を適度に制御できるよう、魂にプログラムされている、そのように考えるのが正しいと思うのです。

 例えば、釈迦やイエスの時代、当時の人々は全ての事を記憶力を頼りに覚え、口伝えでその教えを広めました。ですから、当時の人は、話の内容を相当正確に記憶できたのです。それらが数十年経過した後に編纂され新約聖書や仏典になっているのです。現代は、その必要性がないために、本来の記憶力が眠っていると考えるべきでしょう。

 死後、生前の生き様を映像で見せられます。その人一生の全てが想念帯にエネルギーとして記録保存されています。表面意識が意識できない、または記憶にないと思われることまで細かく記録されているのです。

 どうやら人間は適度に忘れるように、特に嫌なことは忘れやすいように、神様は人間をお造りになっているようです。しかし、それは本当に忘れているのではなく、意識の上に再生されないようにする便利な能力を持っていると言えるのではないかと思います。

 全てを記憶し、全てを思い出すことができたとして、貴方は本当に幸せだろうか。例えば、昔、とても辛いことがあったとして、それを思い出す度に、その時の《辛いという感情》をリアルな映像と音声付きで再生されたとしたら、全くその同じ経験を再び体験するのと同じ事になります。何度も何度も、きりきりした胸の痛みに耐え続けなくてはなりません。

 この様に理解することで、人間の記憶能力とはなんとすばらしいものか、という結論に達します。

② 感情

 自分の心を観察してみると、人間の感情は極めて複雑怪奇であることがわかります。そして、誰もがそのように認識していると思います。しかし、高度な心の作用という視点から考えた方は少ないと思うのです。そこで、まず感情を表す言葉を調べてみました。以下は、BIGLOBE百科事典から抜粋した内容です。

◇ 一般に、6種類の代表的な感情として、喜 怒 哀 楽 愛 (いとしみ) 憎 (にくしみ) が総称されることが多い。
・・・・・・・・・・
◇ 部首が「心」で感情を表す漢字

忌 (いむ) ・忍 (しのぶ) ・怒 (いかる) ・恐 (おそれる) ・恥 (はじらう) ・恋 (こい) ・悲 (かなしい) ・愁 (うれえる) ・慕 (したう) ・憂 (うれえる) ・怪 (あやしむ) ・怖 (こわい) ・悔 (くやむ) ・恨 (うらむ) ・惜 (おしむ) ・悼 (いたむ) ・愉 (たのしむ) ・憎 (にくむ) ・憤 (いきどおる) ・懐 (なつかしむ) 等々。

◇ 感情を表す和語

● 形容詞および形容動詞

かなしい・うらがなしい・ものがなしい・みじめだ・やるせない・たのしい・うれしい・しあわせだ・めでたい・いまわしい・はずかしい・うらめしい・にくたらしい・いやだ・きらいだ・さわやかだ・いつくしい・いとおしい・つまらない・おそろしい・こわい

● 動詞

このむ・よろこぶ・いかる・おこる・かなしむ・おそれる・はじらう・はにかむ・うれえる・あやしむ・うらむ・にくむ・いきどおる・むかつく・きらう・けぎらいする・めでる・うんざりする・あきる・びびる

● 名詞

よろこび・かなしみ・いかり・うらみ

 犬や猫、牛や豚といった動物たちも、ある程度の感情があるのは確かだと思いますが、人間の感情はこんなにも多様なのかと改めて驚きます。

 さらに、ただ単に「悲しい」という言葉を使っていても、実際は様々な「悲しみ」、そしてその深さの程度があります。また、他の感情が入り交じって「悲しい」という状態もあり、多くの方が経験してきた事だと思います。

 そう考えると、感情という心の働きは本当に複雑怪奇です。そして、後述する「感性」と深く関連して、最も創造性の高い分野、すなわち芸術というものを生み出す源泉であると思うのです。

 感情が無ければ人間ではなく、単なる機械と言えるのではないでしょうか。ということは、感情が豊かであることは大切なことになります。では感情が豊かで奔放であれば良いかというとそうではなく、豊かであると同時に制御することで理性と共存し、さらに昇華して感性へと高めて行くべきものであると言えるのかも知れません。

③ 本能 

 本能という言葉の定義の仕方はいろいろとできるでしょう。私が定義するとすれば、

本能の定義

① 例外なく全ての人が持っている本質的な性格、心の傾向性であること。
② 但し、男性と女性という区分は在っても良い。
③ 本来明らかに持ってはいるが、顕現している場合と、顕現していない場合がある。

このようになります。

③-1 この世の本能

 本能というと、最初に頭に浮かぶのは欲望です。最も代表的な本能は、自己保存欲と性欲だと思います。母性本能、闘争本能などという言葉もあります。これが、苦しみや迷いを創り出す原因となることが多いのですが、しかし何故そういうものが備わっているのかと言えば、非常に大切な心の働きであるからなのです。

 もし本能というものが無いとするならば、果たしてどんな世界が出現するだろうかと考えてみましょう。

 例えば自己保存欲の一つである食欲が無ければ、肉体を健康に維持できないであろうし、恐怖や警戒心がなければ、これまた怪我の連続、事故でいつ死ぬか分かりません。ドライバーもうっかり車を運転できないことになります。いずれにしても、本来の寿命に達する前に早死にすることになります。

 性欲がなければ、結婚しても子供を造ることがおっくうになるでしょうから、人類の人口は一向に増えない、あるいは絶滅する事になります。母性本能が無いとすると、子供も無事に成長しないでしよう。

 闘争本能などは、現代ではあまり歓迎されないかも知れませんが、狩猟農耕時代や武力で相争う時代に、家族を養い、地域、国家を守っていくため勇気を補完する意味で必要な時代があつたという事だと思います。現代では闘争本能は全く必要ないかと言えば、必ずしもそうでは無いと思います。

 いずれにしてもこれらの本能は、肉体を維持し、社会生活を営み、人類が繁栄していくために不可欠なものであることは間違いありません。本能そのものは、地上で修行する人類のために神が備えたものなのですが、その本能に翻弄されてしまうと、人間は不幸になっていきます。

 本能は極めて大事です。しかし翻弄されないために、適度に本能を制御する事が大切であり、そこに、基本的な心の修行があります。

③-2 霊としての本来の本能

 《本来の本能》という言葉は、聞いたことがないと思います。通常、本能とは肉体を持つことから来る本能を指すわけですが、私は霊として本来持っている本能があると思うのです。

 《本能を本来明らかに持っているが、顕現している場合、していない場合がある。》と定義づけたのは、母性本能や闘争本能を説明するだけでなく、霊としての本来の本能について説明したかったからです。

 霊は生命エネルギーであり、神の息吹が宿ったものです。簡単に言えば波動であり、《霊は光である》と言えます。単に光りといっても、明るい光と暗い光、また波長の長い赤い光から短い紫の光まで、そして肉眼では見えない波動の世界が無限に続いています。明るい方、波長の短い方がよりエネルギーが高いと言えます。

 従って霊は、エネルギーの低い方から高い方へ成長していこうとする本能を持つ、そう言えるのでは無いかと思います。エネルギーの高い方向、それは神の方向そのものです。進化、発展、繁栄の方向です。そして、進化、発展、繁栄を永遠に持続し人類全体が幸福になっていくためには、互いの調和が欠かせません。

 このエネルギーの流れというものは、高い方から低い方へ流れます。神から流れ出でるエネルギー、またの名を愛と呼びますが、人間は愛の大河を鮭のように遡る習性・本能を持っている、そう言えるのではないでしょうか。

 途中の様々な出来事に目を奪われたり、道に迷い、堂々めくりをしたり、一時の間、愛の大河を遡ることをやめて、河を下っていく鮭も中にはいることでしょう。しかし、永遠という時間の中で、全ての人間は遡ることをやめないはずです。

 愛の大河を遡る鮭、それが人間です。ですから、暗より明、消極性より積極性、陰よりも陽、マイナスよりプラスの心、例えば悲しいより楽しい、不調和より調和、そういう《概念》について人間は誰から教わることなく知っているのです。つまり、《理想》の方角を本能的に知っている、それは鮭の本能と同じである、と筆者は考えるのです。

 ですから本能というと、私達は肉体的な欲望、煩悩のことばかりを考えがちですが、人間として本来備わっている本能がある、それは神の子としての本能であるという視点を忘れてはならないと思うのです。

1-5 知性・理性・感性・悟性     
 
 これらは非常に高度な心の機能と作用と言えるのではないかと思います。知性・理性・感性・悟性という言葉について、改めてその意味を調べてみたところ、色々な説があり、また海外と日本の概念が異なるようにも見えます。

 例えば、心の働きとして「知情意」という言葉があります。そうすると、ここで言う知性とは、理性・感性・悟性を含んだものとなります。感情と感性は同じかどうか、こういう問題も出て参ります。

 哲学、精神科学、宗教など、いろいろな分野にまたがる言葉であり、それらの概念を比較検討したところで、ただ混乱するだけだと私は思います。大切なことは、心の作用と働きについて知ることが目的ですから、私なりの定義を定め、説明と洞察を進めることにします。

① 知性-知識を基にして本質を知る作用と能力である。

 幅広い知識や経験を主体的な拠り所として、その知識のネットワーク化や類推の結果、物事の本質を知り、また諸問題を解決する方法を模索したり、ある一定の結論を導くための能力と定義します。

 沢山の本を読んだり、広く旅をして見聞を広め、様々な職業を経験して、幅広い知識を獲得すれば、色々な角度から物事を考えたり、問題解決のための手段を思いつくことができます。それは、知識と経験という《豊富な記憶》から、似たように事柄から類推したり、全く異なる記憶を互いに結びつけるネットワーク化が可能になるからだと思います。

 知識や経験が豊富なほど、人生は豊かになり、問題解決の能力も高くなると言えます。しかし、知識が多ければ多いほど良いか、というと必ずしもそうとも言えません。何故なら、インターネット、テレビや新聞雑誌等、現代は情報が溢れています。情報は雑多であり、人によっては必要のない情報も沢山あります。

 現代において、基本的な知識は誰でも必要とします。しかし、必要なときに必要な情報・知識を得られるとすれば、必要以上に知識を蓄える努力をするよりも、もっと磨くべき大切な能力がある事に気がつくでしょう。

 さらに、単なる知識を拠り所とする知性だけでは、物事の本質をより深く観ることはなかなかできない、従って独創的なものはなかなか創り出せない事を経験的に多くの人が知っていると思います。

② 理性-理論の展開から本質を知る作用と能力である。

 知識や経験の蓄積を基にしながら、分析、抽象化、概念の抽出などを経て、ある本質にせまる仮説を構築し、その仮説を理論的手法を用いて証明することで、一定の結論と解決方法を見出す能力と定義します。

 理性に関しては、あまり説明を必要としないと思いますが、昔、こういう話を何かで読んだことがあります。

 ある写真が当時の雑誌の表紙を飾っていました。そこには、大きな何かの機械らしき部品の一部と、その側に数人の人物が立って映っている写真でした。ある専門家がその写真に映っている部品の一部を見て、船のスクリューであることを即座に見抜きました。わずかに映っている一部分から全体の大きさを推定し、そこから船の大きさを計算することで、当時の日本は巨大な戦艦を秘密裏に製造していることを知ったそうです。巨大な戦艦とは、戦艦大和を指します。

 理性の本質は、分析、抽象化、概念の把握、仮説の構築、そして証明というところにあります。従って、単なる知性だけでは考えることすらできない領域について、人間が知ることを理性は可能にします。目に見えない、触れられない世界、例えば原子・分子のミクロの世界から、無限の大宇宙の彼方まで人間の念いは既に到達していますが、何よりその事が理性の働きの偉大さを証明しています。

 ただし注意すべき事は、そのようなプロセスを経て一定の結論に達したとしても、それが本当に本質を正しく観たかどうか、結論が正しいかどうか、即断はできないという点にあります。簡単に言えば、「理屈は膏薬と同じで、何処にでも張り付く」の例え通り、仮説を導くために都合の良いデータを集め、微妙に理論を曲げることで、正反対の結論を導くことが可能だからです。

 理性が豊かなのは良いことなのですが、方向性が間違っていると間違った結論を導き、人を大きく惑わす危険があるということを知った上で、これを慎重に取り扱う必要があるということです。良く切れる刃物ほど、取り扱いが難しく、使い方を誤ると人を傷つけ、自らも傷つく事になります。しかし、外科手術のメスのように、正しく丁寧に使用することで、大きな成果を手に入れることが可能になります。当然、取り扱う人の人格や謙虚さがまず必要だと言えるでしょう。

 理性は正しく使うことで、本質に迫るために非常に強力な手法でありり能力であると思います。

③ 感性-理論的に説明ができない本質を直感(感じる事)で知る作用と能力である。

 第六感を含む五感を通じて人間は常に様々な信号を受け取っていますが、客観的に一つ一つの信号は無意味な信号に思えても、一つ又は多数の信号の複合作用から、信号そのものとは別の何かを感じてイメージすることができる能力と定義します。

 後述の悟性と感性は、直感的に知るという意味で同じなのかも知れません。しかし、ここで区別したのは、「理論的に説明ができない本質」という部分です。それによって、何を言いたかったかというと、空間的なもの、広がりを持つもの、例えば形や色の組合せ、配置、そういう芸術的ものは、理論や言葉で表現できないものです。

 また、詩や俳句そして和歌は言葉を用いて表現していますが、その一連の言葉の奥にあるもの、すなわち直接的な言葉や理論では表現できないものを表現しようとしています。表現されたものを観る人、聞く人も、やはり《感じることで》奥底にある本質を知ろうとします。

 知性と理性は、不特定多数の人と共有・共感ということがある程度可能かも知れませんが、感性や悟性は、魂の記憶というか、転生輪廻の蓄積がベースにあるものであり、その人固有のものです。過去の知識や経験、後天的な知識や経験、それらが燃焼してやがて灰になり、焼け残った灰の蓄積が感性や悟性に相当するのではないかと思います。

 技術の世界は感性と無縁かというと、そうではありません。理性の更に下層に有るのが感性や悟性であろうと思います。私は機械工学科を卒業したのですが、大学一年生の時に授業で真っ先に言われた言葉を今でも新鮮に思い出せます。技術屋は《感じニアリング》を大切にしなさい、という教えでした。

 ようするに、技術には直感力や感性・センスが大切であると教授は言ったのです。ですから、芸術を鑑賞することだけでなく、更に積極的な参加、すなわち楽器の演奏、絵を書く事、和歌を創る事などを勧めたのです。家庭菜園をやったり、花の栽培をしたり、そういうことでも良いかと思います。

 これは、技術の分野だけでなく、あらゆる分野に共通することです。工学や科学の世界でもそういうことが言われているということを知っておいてください。

④ 悟性-理論的に説明ができる本質を直感的に知る作用と能力である

 何かあるテーマが発生したとき、その解決の道筋または理論を考えることなく、先に結論または方向性が直感的に分かる能力と定義します。

 感性も悟性も人間ならば誰でも持っているものです。日常の生活の中で、《感が働く》、《センスが良い》、《イメージが湧いてきた》、《ひらめいた》という言葉を何気なく当たり前のように使用していますが、これが理屈抜きに結論を先に知ることができる《人間の恐るべき能力》です。神業(わざ)と言っても良いかもしれません。

 たいていの場合、先に結論が分かっただけでは本人も周囲も納得しません。従って、今度は先に知った結論を説明するための理由をいろいろと考え始めます。うまく説明できるかどうかは別にして、いろいろと考える過程で結論が修正されたり、他と比較することで結論を変更したりすることもあるでしょう。

 感性や悟性のように、何故、直感できるのか、感じることができるのかというと、それは心の中に既に何かのイメージや概念があり、琴線のように共鳴するからだと思います。いろいろな説明の仕方ができるでしょうが、例えば次のような説明もできます。

 星を観測する人はよく知っていることですが、天空の座標が示す同じ範囲の写真を毎日撮り続け、その中に映っている数多くの星の位置や明るさを調べます。毎日観測していると、その中で僅かに星の位置が変化したり、明るさが急速に変化することがあります。その結果、小惑星・超新星・彗星の発見へとに発展するのです。

 毎日、同じ写真を観ていると、直感的に《僅かな変化を瞬時に感じ取る心》ができあがってきます。見た瞬間に「おや???何かが違う」とまず感じます(共鳴=直感)。そして、よくよく見比べて検討した結果、この星の明るさが違う、そのように認識するのです。

 職人や専門家といわれる人、あるいは同じ仕事、趣味、スポーツを長く続けていると、そういう能力が自然と備わってきます。普段の生活の中でも多々あるはずです。例えば、お子さんの姿や顔色を見た瞬間に、「おや、どうしたんだろう」と思うような場合です。次に、詳しく観察して、原因を確認するわけです。

 得た情報から、既に心の中にある概念やイメージが共鳴し、本質に迫るルートが瞬時にできあがるのです。ここで大事なことは《共鳴》という事です。共鳴するからこそ、沢山の要素の中から瞬時に心のイメージや概念を抽出し、直ちに検討できるのです。場合によっては、複数のものが共鳴することもあるでしょう。

 複数が共鳴したり、共鳴の度合いが少ない場合などもありますから、直感が働いたからと言って、正しい結論に到達できるかどうか、いろいろな状況を考えて検討してみないと分からないこともあるでしょう。

 また、他の人はなかなか同意できない事が多いと思います。たとえ理論的に説明できたとしても、物事には様々な側面が伴っていますから、他の人がその説明の正しさを認識できるかどうか、これはまた別の問題となります。

1-6 智慧・認識力

 知性、理性、感性、悟性と説明してきましたが、いずれも正しい方向性・結論に至るための様々な作用と能力であることが分かりました。正しい方向性、結論とは、神の意志、神の心に沿う方向性・結論という意味です。余談ですが、神の法則すなわち神理の中に、物理や科学の法則が含まれるのは当然のことです。

 知性、理性、感性、悟性、が単独で豊かであっても、正しい方向性、結論に至るとは限らないと言ってきました。そうすると、四つの能力が平均している事、バランスが取れていることが大切なのではないかという推論に達します。この考えを進めていくと、智慧とか認識力とは何であるか、という事に対する理解ができて来ると思います。

 知性とは知識をベースにして本質を知ろうとする能力、理性は分析や理論を基にして整合性や仮説を証明しなから本質を知ろうとする能力、感性はごく僅かなことから奥に潜む実態・本質を知ろうとする能力、悟性は直感的に方向性や結論を知ろうとする、と定義してきました。

 普段は意識していない人が多いと思いますが、私達の思考のプロセスを考えてみると、次第に分かってきます。何か問題意識を持ち、それを解決したいと思ったとき、どういうプロセスで考えていくか、取り組むか、ということです。

 過去の知識の中に全く同じケースがある場合は、なにも考える必要がありません。しかし、多くの場合、過去の知識だけではすぐさま解決しないものです。でも、その段階で、人はこういう方向へ持っていきたい、また直感的にこうすれば良いかもしれない、また他にも色々な障害があり得るとか、既にそう考え始めています。

 つまり、感性と悟性が既に働き始めていることに気がつきます。ということは、考える方向性を決めるのは、感性であり悟性が強く作用するわけです。しかし、ここで個人の様々な欲望に引きずられる事が多いのですが、問題が複雑になり、本質的な議論を進めることができなくなりますので、欲望の作用については考えないことにします。

 どうやら、この方向に解決の糸口があるのではないかと方針を決めたら、今度は様々な経験と知識と比較検討、また分析、こうすればああなるというストーリー、類推や推論を含めていろいろな検討をします。ここで、理性が大きな働きをする事になります。検討した結果、やはり結果は良くないことがわかると、再び、感性と悟性に問いかけ、別の方向性を検討します。

 方向性が正しくないと的外れとなり、如何に頭が良くても、計算ができても、記憶力があっても、分析しても、理論を構築しても、全く成果は得られません。努力は完全な無駄に終わります。ですから、この《方向性を決めることが最も大事》であることになります。すなわち、感性と悟性が大事だということです。

 方向性が正しく、知識が豊富で、理性が豊かであれば、正しい結論に速やかに到達します。従って、知性、理性、感性、悟性の総合力が智慧であり認識力であると言えるのではないかと思います。智慧と認識力という言葉は、少しニュアンスが異なるかも知れませんが、言葉の定義を細かく議論しても始まらないので、私は同じような意味として理解しています。

 しいていえば、智恵は《認識力+創造力》と言えるかも知れません。しかし、認識力が高いと創造力は自然と湧いてくる・備わってくるものです。そう考えるならば、何に焦点を当てるかという事で表現が変わるのであり、智恵と認識力は本質的に同じであると言えるのです。

 物事の本質とひと口に言っても、その《本質は立体的なもの》であり、様々なとらえ方ができるというのが真実です。本質は一つ、こういうものだと取り出して見せられるものではありません。

 神理も同じです。ある教えがあるとして、その言葉通り・教条的に実践しようとすると、大きく道を誤ることがあります。それは、その教えの本質を立体的に理解していないからです。盲人と像の例え話を御存知の方は多いと思います。人間は盲人と同じです。その事をまず深く認識していないと、立体的な本質に迫ることができません。立体的な理解とは、神の心を知るということと同じだと思います。

 知性、理性、感性、悟性、これらの総合力として智慧とか認識力とかいう能力が人間には備わっています。私達が何気なく使用している心の作用と働きですが、こうやって改めて考えてみると、万人に備わっているこれらの能力は、正に神業(わざ)そのものではないかと、私には思えます。                       

2.三次元と四次元を貫く「潜在意識と顕在意識-魂の兄弟」

 心の構造を知るための一助として、高度な「心の作用と働き」について考えてきました。次に、私達の心は、四次元以降の高次元世界に繋がっているという事について考えてみましょう。霊的世界からの影響を様々な形で私達は受けているという事実を知って欲しいのです。

2-1 輪廻転生と幽体離脱

 私達の心の故郷、それは天国にあります。人間は地獄ではない世界、あるいは天国からしかこの世に生まれてくることはできません。何故なら、この世に生まれる為には一定の手続き(神の許可)が必要ですし、神の定めた生まれ変わりのシステムがあるからです。この生まれ変わりのシステムを輪廻転生と言います。

 魂の低学年ほど生まれ変わりのサイクルは短く、高学年ほど長くなります。幼稚園生、小学生、中学生、高校生、大学生に相当する、いわゆる学生は、魂の成長段階として義務教育の段階にあり、地上と天国との生まれ変わりを数限りなくくり返しながら、数億年、数十億年、さらに永遠という時間の中で次第に進化していきます。その間、落第し地獄へ堕ちることも数多くあることでしょう。

 肉体に宿った魂・霊は、肉体に宿ることで潜水服を着たような状態になりますが、霊そのものは純粋な生命エネルギーであり、四次元以降の世界と繋がっています。ただし、潜水服を着ているために、霊的な感覚が大変鈍くなっている、そのように考えるとよいと思います。

 感覚は鈍くなっていますが、睡眠中は潜水服を脱ぎ捨て、すなわち幽体離脱して四次元太陽の生命エネルギーを吸収して再び肉体に戻ります。その際に夢を見ますが、夢には二種類あって、一つは自分の想像で見る夢、もう一つは4次元世界で実際に見たり体験した夢です。

 地上の人間は、生きながらにして本来は霊であり、幽体離脱をくり返している存在です。ただ、私達はその認識を持っていないだけです。夢を見る理由は、あの世の世界を完全に忘れないための神の計らいがあると考えられます。

2-2 魂の兄弟 

 生まれ変わる際に自分の全てのエネルギーが肉体に宿るわけではありません。地球の神は進化のシステムとして約100年を地上の寿命とする輪廻転生を創設されましたが、その際に本体と五人の分身という形で魂の兄弟を創られ、交代で地上における魂の修行をすることになりました。

 兄弟といっても、別々の個性を持つ分離した個体ではありません。全体で一つの共通の個性を持つエネルギーであります。地上世界へ一人が旅に出、他の五人は天国で様々な役職や仕事を持ち、次に生まれ変わる人が守護霊として地上の兄弟を見守っています。地上の体験は、魂の成長のために大変大きな学びとなりますが、一方では危険も非常に大きいため、守護霊としての大切な役割があるのです。

 物質的な感覚ではなかなか理解できませんが、エネルギーとしては一つの個性を持ち、別々の事を考えたり行動したりしています。例えば、手の平を本体として五本の指がありますが、それぞれ別々に動かすことができます。その指に小さな人形をかぶせ。布で本体を隠し、指人形劇を人に見せたとしたら、別々の個性ある人形が五人いるように見えます。

 エネルギーとは不思議なもので、魂の兄弟が空間的に分離して存在すると考えるのではなく、あくまでも一体なのです。例えば、TV電波を考えてみましょう。東京タワーから、あらゆる局の電波が、上にも下にも360度の方向へ放射され、一つの空間の中に色々な局の電波が充満しています。

 地上のテレビ受像機(魂)が貴方であり、天上界の兄弟達も別の受像器(霊体)を持っているとして、チャンネルが同じであれば、それぞれに同じNHKの番組が映ります。そのチャンネルの電波が貴方であり、魂の兄弟であると考えると、理解が進むのではないかと思います。しかし、電波は一方的に拡散しますが、意志を持った霊、貴方という霊的エネルギーはこの宇宙全体に広がることも、一点になることもできるのです。

 従って、この地上に生まれ、魂修行をしている私達は、分離した一人という個体ではなく、その心の奥底はあの世の魂の兄弟と繋がっているという認識を持たなくてはなりません。では、地上の私達はなぜ魂の兄弟と交流ができないのか、という疑問が出てきます。

2-3 想念帯により分離された意識

 潜在意識と顕在意識または表面意識に関しては、別のテーマとして説明しましたので参照してください。人は、この三次元世界で肉体を持っている間、自分という意識を唯一のものと認識しており、自他共に分離され、あの世の《残りの自分》とさえ分離されているように感じています。

 この世に生まれるとき、意図的に過去の記憶が封印されます。また、魂の兄弟と自由に話はできないようになります。これは、エネルギーとして分割・分離されたというのではなく、エネルギーとして一つであっても、意志の疎通が自由にはできないように神は定められたと考えると良いと思います。  
 想念帯という磁気テープに似たものが心の奥底にあり、この世に生まれ出てきたときからの「心の作用」の全てが記録されています。また、封印された過去の記憶もここにあります。

 この世で形成された念いの記録というのは、天国の霊人から見るとひどく次元の低いものであり、またマイナスのエネルギー(自己保存、様々な欲望、恨み、妬み、憎悪、猜疑心・・・・)が非常に多い一方、愛、勇気、調和などプラスのエネルギーが極めて少ないのが特徴です。

 そうすると、想念帯から常に輻射熱のようなマイナスのエネルギーが放射され、心の奥底に「光化学スモッグ」または「厚い雲」を形成していきます。心の奥底は、あの世の魂の兄弟にに繋がっている部分ですから、ますます意志の疎通ができにくくなくなります。

 すなわち、分離された意識とは、システムであると同時に後天的な要素が大きい事になります。ですから、心の奥底で輻射熱のようにマイナスのエネルギーを放射し続けている悪しき想念の記録を、《不活性なもの》に変えていくと、次第に心の「光化学スモッグ」(雑音・ノイズ)が消えていき、魂の兄弟との意思疎通がスムースになっていきます。

 そうして誰でも守護霊様のインスピレーションを受けやすくなります。更に霊道を開くに至れば、自在に言葉を介して話ができるようになります。ただし、真の霊道を開く人は、本来そういう使命を持って生まれた方であり、通常はそのような目的を持って生まれてきません。

 何故ならば、正しい霊道を維持するのは並大抵の努力ではできないからです。大変な危険を伴います。ですからある時、この世で修行する人間は簡単に霊道を開くことができないように、神は定められました。その理由は、地獄霊・悪霊の影響から身を守り、地上における修行を成果あるものにすることが非常に大切だからです。
 霊道にあこがれ、その念を強く持ち続け、特殊な修行を続けていると、霊道が開ける事がありますが、ほとんど例外なく悪霊の餌食になるか、良くても天狗・仙人界と通じるのが限界です。この様な方法で、守護霊や指導霊、更に高級霊と通じることはあり得ないと断言できます。

2-4 最も多い霊的影響/憑依

 肉体を持ちながらも人間は本質的に霊ですから、常に霊的な影響を四次元世界から受けています。そして、最も頻繁に受けやすいのが悪霊からの影響です。これも自分ではなかなか分からないことですが、人間であれば例外なく100%あると考えて間違いありません。

 悪霊については、また別のテーマとして本格的にお話ししたいと思っていますが、何故人間は悪霊の影響を受けやすいのかというと、この地上は空間的にも地獄に最も近いところにあり、一部は重なっていると言っても良いからだと思います。

 また、悪霊の中で地縛霊というものがありますが、これは地上に未練や恨みを強く持っており、死んで間もない人が本格的に地獄へ堕ちるまでの期間この地上を徘徊している霊達です。お墓に住み着いたり、自分の家から離れられなかったり、事故現場から離れられないでいます。あるいは、盛り場をうろついて憑依し、一緒にお酒を飲む感覚を楽しんでいるのもおります。

 何故憑依するのでしょうか。個別には様々な理由がありますが、基本的には地上に強い未練・執着があること、でしょう。死後の世界を信じていないため導きの霊を振り切り、仕方なく地上を徘徊している霊などは、ただ淋しいからという理由です。しかし、霊としての自覚を持った後も、肉体的欲望を満たすため憑依する者達がいます。

 更に、憑依することで自己満足する段階を過ぎ、積極的な霊は人間を困らせるために悪戯をしたり、さらには犯罪を犯させて楽しんだり、人間をバカにしたり、互いに争わせて楽しんだりします。

 信じがたい犯罪の裏には例外なく悪霊の影があり、場合によっては肉体が一時的に占拠されてしまいます。「覚えていない、殺せという声が聞こえた、衝動的にやってしまった」、こういう犯人の証言がそれを裏付けています。

 では何故、憑依されるのか。ここが大切なポイントです。結論を言うと、憑依される人が悪霊と同じ精神状態になり、同じ心を持っているからです。これは、霊の本質的な原理からきています。これを《波長導通の法則》といいます。『類は友を呼ぶ』という言葉がありますが、気が合う友人達が自然とグループを作るのは、この法則に基づいています。

 二・三体の悪霊が出入りしているのが普通の人だと言われています。それほど多くの悪霊達が目に見えない姿で虎視眈々と憑依する相手を探しているわけです。自分は反省をしっかりやっているから大丈夫、そう思う方がいるとすれば、そう簡単なモンではありませんよ、と私は言います。憑依した悪霊は、その人間から生命エネルギーを吸い取っていきます。吸血鬼のようにです。

 この種の話に興味を持つ方は多いと思いますが、だんだん本題から外れていきますのでこれぐらいにします。人間は知らず知らずの内に、霊的な影響を大変多く受けている事を自覚してください。であるからこそ、自分の心の状態を常に監視し、自覚する必要があるのです。

 マイナスの念いを持つ瞬間がないか、謙虚な心であるかどうか、愛を忘れてはいないか、感謝を忘れてはいないか、人の喜びを自らの喜びとし、人の悲しみを自らの悲しみとして生きているかどうか、そういう視点で自己を点検しつつ、毎日の生活をすることが大切です。人の幸せを妬んだり、人の悲しみを密かに喜ぶ、というような事が少しでもあるなら、貴方は危ない、そう言えるでしょう。

《心は常に四次元世界と繋がっている》という話をしました 

3.高速で働く「心」        

 心の偉大さを認識するためにいろいろな角度から検討していますが、ここで「高速で働く心」という視点から考えてみようと思います。高速という意味は、現代の最高レベルのコンピュータより早く、光の速度よりも早い、そういう意味です。

 霊波がとてつもなく高速であるがゆえに、高度な心の働きを説明することができるのです。頭が良いとか悪い、成績が良いとか悪い、そういうレベルの話ではなく、老若男女全ての人間に共通する「高度な心の働き」について私は説明しようとしている事を読者は再確認してください。
 
 如何に高速なのか、この点を理解すると、霊能力とは如何なるものなのか、また様々な霊能力の極地とその原理を理解する事ができます。そして神の霊力ともいうべき「宇宙即我」もまた、科学的根拠を持ってその存在を理解しうるのです。

3-1 脳とコンピュータ

 コンピュータの内部で、信号が伝わる速度は光の速度30万km/秒の数分一なのですが、人間の生体内を伝播する信号速度は約100m/秒なのです。つまり、神経細胞、脳細胞の内部で信号が伝わる速度は、コンピュータと比較すると、なんと約百万分の一なのです。

 HP「七つの封印」における「1.脳とコンピュータの比較」を参照してください。

3-2 心とコンピュータ
 
 神経を伝わる信号はこんなに遅い速度なのに、心の処理速度はスーパーコンピュータより遙かに高速だということを、これから説明いたします。余談ですが、心が脳細胞にあると信じている科学者は「ひどい思いこみ、ひどい迷信」に取り憑かれていると言えます。科学者だけでなく、伝統的な神を信じる人ですら、脳に心があると考えている人が圧倒的に多いのが現実です。

 確かに、四則演算のような計算についてはコンピュータに人間はかないません。しかし、今まで見てきた様々な心の作用をコンピュータではとうてい表現できないのです。何とか表現しようと努力しても、そり処理内容が膨大になってしまい、結局断念する事になります。

3-3 光と霊波の速度

 光の速度はとてつもなく早いと現代の人間は思いこんでいますが、《霊速(霊波の速度)》は更にとてつもなく早いのです。どれくらい早いか、正確には分かりませんが、次のように考えると概念的に理解できると思います。

 この銀河系宇宙は直径10万光年といわれています。すなわち、光速で10万年かかる距離です。そして、そういう銀河は何千万個も集まって大宇宙があり、その大宇宙が更に無数にあるらしいことまでが現代の物理学で分かっています。私達が見ている大宇宙の大きさは数百億光年と言われています。

 従って、全宇宙の大きさを人間が測り知ることはできません。しかし、この様な宇宙であっても、宇宙創造の神がこれを観たとき、金魚鉢の中にある一粒の粟粒が大宇宙であり、無数の粟粒があるがごとく見える、とある霊言書にありましたが、正にそのようなものであろうと私は理解しています。

 地球の神・九次元霊は、この銀河だけでなく他の銀河と自在に行き来していると言われています。10万光年離れた他の星へ、「会議に出席するためにちよっと行ってくる」という感覚、東京から大阪へ出張するようにして、仮に一日で移動したとすると、《霊速》の早さは、光速の10万倍×365日 = 3,650万倍ということになります。

 このような比較や例え方が適切かどうかは分かりません。しかし、概念的には《霊速》が如何に早いかを理解することができます。霊というエネルギーはそういう性質のものであり、心は霊的エネルギーの塊???ですから、コンピュータとは比較にならない高度な機能を持ち、多様な働きができるといえるのではないかと思います。

 生命体の全てに魂・霊が宿っています。霊である以上、その働きは本質的に前述のごとく非常な高速であることに変わりはありません。しかし、人間以外に、高度な心を持った生命体、あるいは動物と人間との中間的な心を持った生命体は一切存在しません。これは人間が神によって創造された証拠であり、神の子である証拠の一つです。

 霊の中核部分が心であり、霊と心は同義であると考えても良いと思います。その霊が物理的に極めて高速で運動する事ができる、従って心の高度な作用や働きは、高速である事によって生み出されていると言えます。

 地上の人間は、霊的能力やその極地である神通力などの存在を信じたとしても、やはり不可思議に思えるのが事実です。しかし霊とはエネルギーであり、波動であり、極めて高速である事を理解することで、《霊の本質》を理解することが可能になるのです。私達にも関係する幾つかの霊的特徴をについて、次に考えてみましょう。

3-4 真我と偽我 
  
 自らの心というものを観察してみると、心は実にすごいことをしているのだ、という事が分かってきます。例えば、自分には嘘はつけません。自分を騙すことはできないのです。《何故、騙すことができないのでしょうか。》

 ところが、《心はすごいものである》という認識を持っている人は極めて少ないのです。心を研究対象にしている科学者でも、皆がそう認識しているようには思えません。さらに、《自分で自分に嘘をつくことができない》のは何故か、こういう事を考える人も少ないでしょう。

 しかし、心の偉大さを考察すればするほど、本当にすごいものであるという認識が一層深くなるばかりです。心を研究することは、神を研究することと同じ事になっていくのです。

① 人間は自民自答する能力を持つ

 今考えていることが、良心に反することか、合致することか、そう自問自答することが良くあります。自分にとっては有利なことでも、同時に他人を傷つけてしまうのではないか、他人を害して自分は利を貪る、それで良いのか。あるいは、他人の不幸を密かに喜ぶ自分を発見して、なんと情けないことかと思ったりします。更に、他人の不幸を願い、自分の幸せを願う、そういう自分をふと知ることもあるでしょう。

 自分の中に良心があることは、全ての人が認識していることでしょう。同時に、心の中に醜い自分《己心の魔》が住んでいることも知っています。そして、《現時点の己》が存在する。するとどうやら心の中に三つの人格が居るらしいことが分かります。

 その《現時点の己》を認識している自分は四つ目の自分か????。果たして、心とは何だろうか、自分とは如何なる存在であるのか、こういう疑問になるでしょう。これを《真我と偽我》の項で説明しましたので参照してください。

② 高速の心と三つのキャンバスの喩え 

 自分の中で自問自答したり、あたかも複数の人格があるように感じられるのは、心の運動や作用、働きが非常に高速だからです。あたかも、二人の人格が互いに話をし、それをまた見ている自分が居るわけですが、高速であるが故にそのように見える、または感じることができるという例え話をしましょう。

 ここに三つのキャンバスがあります。絵描きさんは貴方であり、もちろん一人です。貴方が左のキャンバスに一筆描き、真ん中に一筆書き、右に一筆書き、そしてまた左に一筆書き加える。そうして、次第に三つの絵が仕上がっていきます。この三つの絵は、三つとも全く異なる絵です。

 しかし、ここで1/100秒ごとに、三つのキャンバスに一筆づつ描き加えたら、あるいは1/1000秒ごとだったら、どのように第三者には見えるでしょうか。更に、それよりずっと高速で動いたとすると、三人の絵描きが同時に絵を描いているように見えるでしょう。第三者の観察者も貴方であるとするならば、一人四役ということになります。

 以上の例え話が、良心、己心の魔、現時点の貴方、そしてそれを認識している貴方の関係に相当します。すなわち、心の作用とは非常に高速であり、瞬時に立場を入れ換える事ができる、そのように高度な性能を持っていることがお分かりだと思います。これは、頭が良いとか悪いとか、成績が良いとか、悪いとか、そういう次元の話ではないのです。

 そんなに《優れた心》を全員が持っているのに、何故人によって大きな差が生じるのか、あるいは自分は恵まれないのか、こういう疑問が湧いてきます。全ての人に《本来備わっている能力》ですが、その事を認識しているかどうか、使い方を知っているかどうか、訓練するかどうか、それによって自らの能力を活かせる人と活かせない人の差となってくるのです。

 人間は神の子であり、全員が神の《素質》を持っています。自らを訓練し、艱難辛苦に耐えられる人は、自分の肉体や頭脳を鍛えることができ、高い成果を得る機会に恵まれるという結果になります。

3-5 一念三千 

 前項では、心が高速で運動するが故に、四つの人格が一つの心の中に形成される話をしましたが、やはり高速でしかも《自在》である話をしたいと思います。
 仏教の言葉で《一念三千》という言葉があります。一念とは、一つの念(おも)い、想い、思い、考えのことです。字が異なるのは意識の深さが異なる事を表しています。《念い》とは表面意識に昇るかどうかに関係なく、心の奥底に発生する《エネルギー》を表しており、言葉になる以前のものと考えると良いと思います。

 念いは変幻自在、三千世界へ瞬時に切り替わるという意味であり、三千世界とはあらゆる世界を指します。つまり、天国から地獄、微小の世界から宇宙の果てまで、念いの方向性を変化させることにおいて自在かつ瞬時であるという事です。

 人は無意識の内に念いを巡らせていますが、様々な念いが瞬時に切り替わり、あらゆる世界へ霊波という情報を発信しているのです。寄せては返す波のごとく、心の中では次から次へと様々な念いが寄せては砕け、また新たな念いがやって来ます。

 人がさざ波のごとく発している霊波に引きつけられ、悪霊達がハエのごとくその人に集まって来る可能性があるのです。マイナスの念いであれば瞬時に地獄に通じます。そして、地上は地獄に最も近いところにあり、また地上を徘徊する地縛霊も無数にいますから、あっという間に憑依されてしまいます。彼らも霊ですから、瞬時にやってくると思って間違いありません。

 心は非常に大きな能力を持っているが故に、無意識に漂うような心の危険性、誤って使うことの危険性を示す言葉なのです。

3-6 一則多・多即一(いっそくた・たそくいつ)

 神の技(わざ)とも言うべき高度な霊能力を表す一つに、この《一則多・多即一》という言葉があります。一人かと思えば複数であり、複数かと思えば一人である、そういう意味です。すなわち、同時に別の空間に複数の姿を現すことが出来る事を意味します。

 「② 高速の心と三つのキャンバスの喩え」において、3人の絵描きが絵を描いていますが、実は一人であるという話と基本的には同じです。この喩えは、高速で作用する心の不思議として話しましたが、《「一則多・多即一》という言葉は、同一の霊体が同時に別の場所に出現することができる能力を持っていることを表すものです。

 もっと具体的に言えば、神近きイエスキリストのような方は、様々な場所に同時に姿を現す事ができるのです。原理的には、100でも1000でも可能なのだと思います。霊とは本来姿も形も無いエネルギーですから、幾つに分割しても同じエネルギーだということです。

 コップの水は幾つに分けても同じ水ですし、また電波で例えれば、NHKの番組は無数のテレビ受像器に映せるし、そこに同じ人物が映されるに似ています。ただ、テレビと異なるのは、別の空間に出現したイエスキリストは、それぞれ別の動作をし、別の言葉を話す事ができるという点です。

 おそらく、個性の異なる人物として、姿形も異なる人物として、同時に別の空間に出現することも可能であると考えられます。もともと、イエスキリストと称される方は本体のごく一部の個性にすぎません。釈迦も同様に本体の一部の個性です。ですから、イエスや釈迦の本体は更に巨大なエネルギーであり、トンボの複眼のように無数の個性を持つと考えると良いと思います。

 ですから、イエスや釈迦の本体(九次元霊)というものは、私達が歴史上知り得る知識から得られるイメージを遙かに超えた存在であることを認識すべきなのです。

3-7 開無限・握一点(かいむげん・あくいってん)
 
 「一則多・多即一」と同様に、高度な霊能力として《開無限・握一点》という言葉があります。《高度な》と言いましたが、霊であれば誰でも本質的に備わっている素質です。しかし、その認識が無く使い方が分からない、あるいは使えるだけの能力を持つに至っていない、そのように理解すべきであると思います。何故ならば、

① 霊とは姿も形もない生命エネルギーすなわち波動である。
② その波動の速度・霊波のは極めて高速である。
③ 後ほど説明しますが、人間は誰でも神と同質の波動を持っている。

この事実は、全ての霊に共通することだからです。

 では、どのような能力であるか説明しましょう。意識が宇宙を飲み込むほどに拡大し、また意識を小さな点のように縮小することもできる、という意味です。

 宇宙即我(うちゅうそくわれ)という、如来の悟りであり神の霊能力を表す言葉があります。高橋信次著「人間・釈迦①」三宝出版P.155《偉大なる悟り》に、釈迦が宇宙即我の悟りを開いた時の話が載っています。

 意識が拡大し、地球を眼下に見、やがて太陽系全体が見え、銀河が自分の体内に収まるほどになり、全ての生命や星々を手に取るように感じ取ることができる、すなわち自分の意識の中に収まったような感覚ということです。

 「一則他・多即一」「開無限・握一点」「宇宙即我」という言葉は、神の霊能力(神通力)と言われるものですが、私達凡人もその本質において、その能力を持つに至る素質を持っているということを理解しておく必要があります。

 一般的な人間が死んで霊となったとき、まず死んだことを理解し、霊であることの本質を理解し、霊性を高める為の様々な学びを続けていきます。一つのテーマとして、霊としての能力を磨くということも含まれます。

 例えば、空を飛ぶこと、念によって物を得ること、遠くの霊人とコミュニケーションを取ることなどいろいろとあるようです。正に、全ての人間は「神の子」であるのですから、神と同一の素質を持っているのです。 

4.高次元の神へと続く「心の構造」       
               
 構造というと三次元の立体的な形のことを思い浮かべてしまいます。例えば、人体は内蔵がこの様に有り、血管がこのようになっていて、筋肉や骨格がこの様になっている、・・・と。しかし、ここでいう心の構造とはそういう意味ではありません。

 心は霊そのものであり、エネルギーであり、本来姿も形もない、と今まで言い続けて参りました。ですから、心の構造といっても、形状的な事ではなく、《霊エネルギーの質的な構成》と言うべきだろうと思います。

4-1 霊はエネルギーであり波動である

 霊はある種の波動ですから、原理的にはエネルギーの低い波動から高い波動、周波数の低い波動から高い波動、があるはずなのです。

 この宇宙空間は真空であると教えられてきましたから、大部分の人はそう信じています。科学者の大部分もそうです。しかし、そうであるならば、光の伝播理由、電波の存在、重力の存在、磁力の存在、更に物質の存在理由を説明できないのです。今の物理学は、そのような根源的なことを一切説明しておりません。説明しているのは、相互の現象であり、作用と反作用に付いてのみです。ですから、当然、霊の存在など科学的に説明のしようがないのです。

 しかし、この宇宙空間には、エネルギーが充満していることで、やがて様々なことが説明できるようになっていくのです。物理学が飛躍的に発展することで、人類は宇宙空間を自在に往来し、永遠のエネルギーを手に入れることになるでしょう。

 三次元の物質世界、四次元の霊の世界、更に高次元の天使や神の世界、これらは地球を磁場とする同一空間に存在するのであって、それ以上のものではありません。しかし、低い次元から高い次元の世界を認識することができないため、私達の多くは死後の世界をおとぎ話のようにしか思うことができないでいるのです。

 この宇宙空間にはエネルギー(波動)が充満しており、そのエネルギーの海を《意志を持ったエネルギー(霊・魂)》が海蛍のように泳いでいる姿、また銀河や星々が島のように存在している、これが真実の姿であろうと思います。以下は、神と同質のエネルギーを人間は持っているという話をしていきたいと思います。

4-2 波動と次元

 次元という言葉を多くの人は知っています。一次元は直線の世界、二次元は平面の世界、三次元は立体的な世界、では四次元はというと、はてな??? となります。私達は三次元の世界に住んでいますので、一次元・二次元を視覚的に捕らえることができ、すぐにこれを理解できます。

 しかし、四次元以降の世界については、概念的に理解するしかありません。感覚的に捕らえることができないためです。しかし死後、少なくとも四次元の世界を理解することになります。私も概念的な理解の基に洞察し、これからお話ししようとしています。しかし、仮に四次元以降の住人である霊人が地上人に語ったとしても、その理解は地上の理解以上のものにはならないでしょう。

 三次元は物質の世界、四次元はエネルギーの世界であり時間を超越した世界、という具合に理解するのは間違いではないと思います。しかし、四次元の世界から五次元の世界を考えたとき、やはり四次元の世界を物質に近い世界、五次元の世界をエネルギーの世界と理解することになるかも知れないのです。

 何故かというと、物質はエネルギーが固体化した状態、すなわち水が凍って氷になった状態です。ではあの世の世界、四次元以降の世界はどうなっているのか。先ほどの例を延長すると四次元は透明な水の状態、では五次元は霧の状態、更に上の次元は完全な気体すなわち水蒸気の状態、という喩えができるかも知れません。

 何が言いたいかと言いますと、エネルギーには質的な段階があるはずである、ということです。適切な表現かどうか分かりませんが、重い、粗野なエネルギーから、軽い、精妙なエネルギーへと言えるかも知れません。エネルギーは波動ですから、波長や周波数が異なると、エネルギーの質が非常に異なるのです。

 ですから、無限の段階があります。しかし、大きく異なる要素を境にして、次元が異なると称しています。その同じ次元の中でも、エネルギーには質的な違いがあり、そのエネルギーの質を操作することで、あの世にも姿や形、色や臭いが創り出され、地上には見られない豊かな世界があるのです。

 様々な霊界通信によると、天国には例外なく山があり河があり、森や草花が茂り、動物が生息し、多くの霊人が住んでいます。それらを視覚的に捕らえることができ、また臭いを感じ、触感もあり、味を感じることもある、とこう記載されています。無味乾燥した単なる《幽霊の世界》ではないということです。

 但し地獄界は、霊人の想念がその世界を創り上げていますから、草一本生えていない灼熱の砂漠のような世界、寒風吹きすさぶ殺風景な世界、多種多様な殺伐とした世界が広がっています。

 霊界の詳しい内容は、いずれ行いたいと思います。

4-3 神と次元

 エネルギーは波動ですから、波長や周波数が異なると、原則として互いにその存在を認識できません。そこから、次元という壁が生まれてくるという話をしました。そして高次元世界の住人は下次元へ行くことができますが、逆はできないということも大切な法則です。高次元の住人がエネルギーレベルを落とすことで、下次元の住人は認識できるようになるのです。

 地獄は四次元幽界の中で最も低く粗い波長の領域であると言えます。そして四次元の中程から上段界にかけて地上の波動に近い世界、すなわち精霊界と呼ばれる天国と地獄の中間の世界があります。もちろん地獄といっても、深さにおいて無限、横の広がりにおいても無数の世界があり、精霊界も天国もまた同様です。

 天国と呼ばれる世界は、五次元霊界(善人界)・六次元神界・七次元菩薩界・八次元如来界・九次元太陽界(宇宙界)と続き、ここまでが地球を磁場とする霊界です。更に太陽系、銀河系宇宙へと、更に高い次元が広がっているのです。

 九次元世界の霊人・大指導霊はこの地球を磁場とする人類の進化をマネージメントしています。伝統的な宗教は、この複数の大指導霊達を神と称していますが、宇宙の創造神は更に高い次元におられることを私達は容易に理解できるはずです。

 では、創造神はどのような次元におられるのか、これはなかなか興味深いことです。しかし、究極の神とは何かという事に関しては、地球の神である九次元霊であっても、その存在を感じ取ることはできるとしても確かな認識はできない、そのように様々な霊言書に記されています。

 すなわち、創造の神とは、九次元よりも遙かに高い次元におられるようなのです。この三次元宇宙を創った神であるならば、その宇宙よりも遙かに巨大な存在である事は容易に想像できます。高次元であるほど、より創造神に近いエネルギーを持つと言えます。

 神の子である私達の魂も、悠久の時間の中で次第に成長し、少しずつ次元上昇していくのです。

4-4 魂の誕生
 
 では、どのようにして魂は誕生したのでしょうか。これについて、実証できる者は神または神近き大指導霊以外にはいないであろうと思います。しかしながら、私は霊言書など様々な霊的な情報を集め、科学的な思考と論理によって、矛盾がない事を確かめる事ができる内容であれば、それらを自らの知識とし、それで良しとする考え方を持っています。

 その霊言書などから得た知識、あるいは推定される事などから、私達人間の魂、動物の魂、植物の魂それぞれ色々な誕生の経緯があるように思います。動物や植物の魂は、この地球でも盛んに創造されてきたことが記されています。

 しかし人間の魂は、地球の神・九次元霊であっても、容易には創造できないようです。そのため、他の宇宙や惑星から、様々な人類を呼び寄せました。肉体のまま飛来したケースや、魂の集団として、すなわち霊的な飛行によって地球へやって来たケースなどがあります。これが地球人類の祖先です。

 そして、その魂の人口を増やすため、一種の分光機を創り、一人の魂を本体として五人の分身を創ったことがあるとされています。それが魂の兄弟というグループ???の起源です。では、宇宙からやって来た魂はどのようにして誕生したのか、という疑問になります。

 私の結論を言いますと、高次の霊、すなわち神近き神霊から無数の分身が創られ、更にそれが無数に分光され、これをくり返して行われた結果として、この宇宙に無数の人間の魂が生息するようになったと考えています。ですから、創造の神そのものの高次元エネルギー・波動を全ての魂は受け継いでいるはずなのです。

4-5 神の目から見た幼い魂達

 神の目に幼い魂達はどのように見えるか、そういう視点で書かれた詩があるので紹介しておきます。HP本館「七つの封印」>「神理の書籍紹介」>「5.その他の神理の書籍」>3.「伝わるのは愛しかないから」の中から抜粋します。

   流奈君の詩参照 http://www.the-seven-seals.jp/book/runa2%20.htm
   流奈君のHP http://www2.odn.ne.jp/luna/

「伝わるのは愛しかないから」日木流奈著 大和出版 P.15、P.34抜粋

P.15
星の闇に眠りし魂たち
悲しみも憎しみも置いていくがいい
すべては私が引き受ける
享楽の彼方(かなた)に何が始まるのか
それを見つめるがよい
ああ、ここは美しき暗闇
光の粒が球になり
その内側を光らせて
まだ外には漏れることがない
ここは目覚めし者たちを送る闇の寝所(しんじょ)なり


P.34
はじかれし粒
光の粒たちよ
互いにぶつかり
互いに離れ
その粒たちは
まどろみの中
翔び立つであろう
彼方人(かなたびと)たちが見守る中
産湯に浸かる間もなく
それらは自ら成長し続けるであろう
内に秘めたる光の量は無限大
ひとつの粒があまたを包み
宇宙の目覚めを導かん
人の目覚めは光の解放
人と相似の神の意志
生きとし生けるものたちを包んであふれ
進み行く
彼方
彼方
そこは光の彼方なり
---
---
詩は更に続きます。


 流奈君の詩を全文に渡って解説してありますので、詳細はHPを参照してください。

 「伝わるのは愛しかないから」という書籍を出版したのは、彼が10才の時です。そして、この詩は全部で15編まで続きますが、書籍の所々に無造作に分断して挿入してあるのです。そして、詩の内容と書籍の本文と直接の関係はありません。

 ですから、断片的に詩を読んだだけでは意味が不明であり、読者の大半は著者の意図に気づくことなく本文を読むに留まることでしょう。しかし、私のHPで解説したように、この15編の詩を続けて読むと、そこに壮大な神の心がイメージされてくるのです。

 心を澄まし全文を読むことで、その波動から読者はきっと何かを感じ取る事ができるでしょう。

4-6 魂のタマネギ構造

 人間の魂は、高次元の神から分光されて誕生した、ということを述べてきました。

 世界的な物理学者ホーキング博士は、我々が見ている数千の銀河を含むこの大宇宙の外側に、沢山の大宇宙が風船のように浮かび、糸のような通路で大宇宙同士が繋がっている、そのような仮説を紹介しています

 おそらくその風船の一つ一つが神の細胞に当たるのかも知れません。いずれにしても、この大宇宙や私達も、神の体の一部に相違ないと考えられるのです。ですから、私達の《魂の生地》は《神と同じ生地》を持っているはずなのです。

 そして、神は最初に風船のような大宇宙を沢山創り、更にその内部に沢山の銀河を創り、そして無数の太陽を誕生させ、惑星を誕生させ、そこを磁場として無数の生物を創造し、人間を創造された。

 神は大宇宙を包含し、その大宇宙は無数の銀河を包含し、銀河はまた無数の太陽と惑星を包含している、そして人間と生物は惑星を磁場として生息しています。この地球は、三次元の物質界を出発点として、地獄を含む四次元世界から九次元世界まであります。月意識、地球意識という惑星意識は十次元、太陽系は十一次元・・・・という具合に、大宇宙を創造した神の次元まで広がっています。

 人間の魂は神の分光によって誕生したと前述しましたが、以上のような次元構造が神の領域まで広がっているとすると、私達人間の魂も、同様の次元が心の中に存在し、心の中で創造神へと繋がっていることになります。

 これが魂・心がタマネギ構造を持つという説の根拠となります。私達の表面意識は、タマネギの一番上の皮の部分にあります。しかし、心の奥底は神に通じる次元構造を持ち、心の本質は神と同質のものから成り立っているのです。

4-7 進化と次元の開拓  

 タマネギの皮のように、心の中は四次元・五次元・六次元・・・・更に高次元の要素を内部に包含するような構造になっている事を、概念的に理解されたと思います。

 であるならば、修行、魂の進化、霊性の向上とはどういう事なのか、また霊とはエネルギーであり波動であると説明してきましたが、タマネギの皮とどういう関係があるのか、人は神の生地を持っているにもかかわらず、何故神ではないのか、このような疑問について考えてみましょう。

① 波動と個性

 霊とは波動でありエネルギーですから、一定の周波数を持っていることになります。そして、心は低次元から高次元へと連なる構造を持っている、そのように説明してきました。従って、4次元の波動・五次元の波動、・・・さらに高次元の波動を心は持っていることになるのです。

 波動は無段階に無限の周波数まで広がっていますから、四次元・五次元といっても、その中はやはり無段階に無限の周波数を持っています。簡単に言えば、幾らでも異なる波動が存在するということです。

 では、個性とは何か、波動で説明するとどうなるかですね。一口で言えば、個人はそれぞれ無数の異なる波動を持っており、その組合せ方や周波数の強弱などが異なり、その結果、個性も全く同じ人はいないのである、と説明できます。

② 波動と霊性

 人間は神と同じ波動を持っています。しかし、その波動をどの程度その人が使用しているか、またはどの次元の波動の世界で精神活動をすることが多いのか、言い換えると高い次元の波動を使用して活動している人は霊性が高い、そう言えるかとかと思います。

 波動とは不思議なものです。細い一本の光ファイバーや電線の中、あるいは空間を、混信することなく沢山の信号、音声、映像を同時に送っています。いろいろな方法があるようですが、異なる帯域の周波数を持った波動を一本の線の中を通すこともできますし、細切れのデータにしてタグを付ける事により、沢山の種類のデータを次々に送り、受信先で仕分けして別々のデータとして取り出したりするようです。

 ラジオやテレビの電波は搬送波と言って、一局当たり一つの帯域の波動に、いろいろな音声や映像を乗せています。夜間、テレビ受像器が真っ白でジジーッと音を出しながら、何にも映らない時間帯がありますが、あれは電波(搬送波)は発信されていても信号は乗せられていない状態のものです。

 何が言いたいかと言いますと、高次の波動を持っていても、使わなければ無意味だという事です。つまり、人間は神の子であり、高次元に繋がる心の構造を持っていても、すなわち高次元の波動を持っていても、使わなければ、また《使い方を知らなければ》、その人の個性に全く反映しないということになるのです。

③ 修行・進化・霊性の向上・悟り

 私達は神の子ですから、神の分身としての素質を持っています。これを生地といったり畑と言い換えることができます。その生地で自分の個性という洋服が創れるか、また畑を耕してどのような作物を実らせていくのか、それが一人一人に神は問うておられるのだと思います。

 見渡す限り広大な、また水平線まで続く畑・土地を皆さんは持っています。今はまだ何も植えられていない、肥沃な土地が広がっています。その畑は全て貴方のものです。さて何を植えるでしょうか。どのように育てると良いのでしょうか。

 この畑を耕し、作物を植え、収穫するを通して私達は学んでいきます。耕す喜び、育てる喜び、収穫する喜び、その喜びをより大きくするにはどうしたらよいのか、また隣の畑を見て、いろいろと学ぶことも多いはずです。あるいは風雨・嵐という試練もあるでしょう。

 すなわち、神より与えられている《貴方の畑》を豊かに実らせていく、それを足下の周辺から次第に広く遠くまで広げていく作業が修行です。最初は狭い範囲しかできないでしょう。しかし、何度も生まれ変わって経験を積み、智恵が付くに従い、耕して作物を育てることができる範囲と種類は次第に拡大していくはずです。

 どれだけの広さの畑を経営できるか、またより豊かな実りを収穫できるようになるか、その学びの蓄積が智恵であり、進化・霊性の向上・悟りと呼ばれるものであると言えます。智恵を獲得していくと、自分の畑だけでなく、他の多くの畑を耕す人々に適切なアドバイスを与えることができるようになります。やがて、自と他という区別は本来ないことが分かってきます。

 神の素質を私達は受け継いでいるという事は、水平線まで続く《何も植えられていない畑》を与えられていると例える事ができるのです。

④ 悟りは低次元から高次元へ

 私達は自分の生まれ故郷を知っている鮭のように、神の愛と慈悲という大河を遡っていこうとする習性があります。時には、道草を喰ったり、海へ逆戻りしたり、横道にそれたりすることもあるでしょう。しかし、再び元気よく河を遡ろうとするに違いありません。

 次元の話で言えば、神に与えられた前述の《低次元から高次元へと続く畑》を耕したいという習性を持っているということです。時には地獄へ堕ちることもあるでしょう。しかし、何度か失敗して学ぶ内に次第に失敗が減っていきます。

 また七次元菩薩界、八次元如来界の光の天使であっても、地上に生まれれば人間であり、多くの困難を乗り越えなくてはなりません。このような霊性の高い方であっても、まっすぐに天上界へ帰れないこともあるのです。

 その代表は地獄の帝王・ルシファーと呼ばれている者であり、宗教指導者だけでなく、多くの様々な分野の指導者達も地獄で呻吟しているのが事実です。

 しかし、永遠という時間の中で、再び鮭のように愛の大河を遡るようになっていきます。四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、十次元・・・・・・そして究極の神へ向かって。

5.心の偉大さ
           
 心の偉大さを知る上で、様々な角度から考察してきました。

① 人間だけが他の生物にはない圧倒的な働きをする心を持っている。
② 心は潜在的に偉大な能力を秘め、神と同じ素質を持っている。
③ 心の能力と作用は全ての人間に共通しており、違うように見えるのは成長の段階が異なるだけである。

 心の偉大な潜在的能力を知ることで、自己の神性を確信する事ができます。自己の神性を信じることで他人の神性をも信じることができるようになります。

自他は一体にして、共に神の子兄弟なり

 自分の心の中でこれを真に実感できるとき、自己を見る目、他を見る目、世の中を見る目が変わってくるでしょう。そして、神の偉大さを知るための資格を獲得するに至る、と私は考えます。単に概念的な言葉上の偉大さという理解ではなく、血の通う生きた神、すなわち森羅万象に宿る神性と神の慈悲が溢れているこの現世を実感できるようになると私は思います。

 神の子としての自覚が確立されることで、絶えざる向上心を持ち、努力精進を続ける事が可能になります。それは《絶対の信仰心》の獲得であり、《不動心》の基礎となります。同時に真の感謝と報恩の感情が自然と湧いてくることでしょう。

終わりに

 非常に高度な「心の作用と働き」と題して、本章では「心の偉大さ」について考えてきました。神の子としての実感を高め、認識を新たにできたら幸いです。自らに似せて偉大な心を持つ人間を神は創造された。しからば、神は何を楽しみにこのような宇宙と人間を創造されたのか、そのような考えに読者は及ぶはずです。そして果てしなく心の探究は続きます。
 



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