ヨハネの黙示録・全ての謎が分かる

The Seven Seals

◆◆◆ 4-⑧ 謙虚さと反省 ◆◆◆
2009.05.08 窪田光治
姉妹サイト「日々神理の探究」2009.02.27-03.09連載文を整理統合して掲載してあります。
1.反省の要点
2.天国の条件/マタイ《自分を低くする???》真の意味
3.進化する《謙虚さと反省》
4.謙虚さの本質

 《謙虚さ》は、心の探究を志す者にとって、全てに優先して最も大切なものです。そこで、反省と謙虚さの関係、また謙虚とは何か、その本質について考えてみることにします。

1.反省の要点

 正しい心、執着の無い透明度の高い心を創り上げる、また高橋信次氏の言う心のスモッグを取り払うために、反省というものがあります。中でも、釈迦の八正道に示されている反省の原理はとても優れた方法だと思います。しかし、それは誰にでもすぐにそのまま当てはめられるのか、それだけで良いのか、またなぜ継続できないのか、この辺の問題についてまず考えてみたいと思います。

1-1 正しさの基準と謙虚さの程度

 反省が正しくなされるためには、謙虚さと正しさの基準が必要です。正しさを判断するのは「自分に嘘のつけない良心」であり、その基準は「足ることを知る事」と「中道」の教えだと思います。しかし、感じるのも、考えるのも、判断するのも個人ですから、その人の状況や心境によって皆その基準が異なります。同様に謙虚さの程度も個人差が非常に大きいのです。

 結局、《正しさの基準》も《謙虚さの程度》も、その人の心境(悟り)以上のものではないということになります。これは、幾ら本を読んで学んでも、また教えられても、その人が理解し魂が受け入れられる範囲を超えることはできません。

 しかし、『進化する《謙虚さと反省》』と題して後述しますが、本を読み、教えられながら自らを高めていきたいという情熱(菩提心)があれば、《正しさ》も《謙虚さ》も次第に透明度を増し、反省もより深くできるようになっていきます。

1-2 継続の大切さ

 一週間、反省を徹底的にやった、何度も何度も徹底的に反省した、自分は反省のプロだと言わんばかりの方がいらっしゃいますが、その文書の過去形から、今では反省を継続していないのだろうと思います。

 一方で、私は面白いと思ったのですが、反省は耳のあかをほじくるほどにすれば良いのですよ、と軽く説く人もいます。これはおそらく、継続することの大切さ、特に習慣にしていく大切さを教えるための方便であり、次第に反省が深まっていくことを期待しているのだろうと思います。

 反省をした人は多いと思いますが、いろいろと観察していると、やめてしまう人が多いように見えます。徹底的に反省した人ほど、自虐的になって反動的な方向へいくのではないかとさえ思います。自虐的になる反省はハッキリ言って間違いです。そして、例え「耳のあかをほじくる程度」に軽くても、日々反省を継続していく事が非常に大切だと思います。

1-3 反省の目的を知ること

 正念、正定が最後に来ますが、瞑想と精神統一、守護指導霊との導通というところに目を奪われていると、反省の本来の目的を忘れてしまいます。まず、反省の目的を個別要素に分解して整理してみると、

① 謙虚さの向上
② 心の浄化と透明度の向上
③ 自分を許す事
④ 心の傾向性の修正
⑤ 自己の進化と自己創造

 というところにあります。徹底的にやったというのは、自分の悪いところ、至らなかったことについての反省だと思います。しかし、上記の目的をしっかりと理解するならば、これで終わりという事は永遠にあり得ません。徹底的にやった、と言った瞬間、または思った瞬間、その方は既に謙虚さを忘れた事になります。

 正念、正定、祈りと精神統一、守護指導霊との交流も何のためかと言えば、全ての項目に関係することではありますが、本来は『⑤ 自己の進化と自己創造』を通じて、社会や人類に対していささかでも貢献するために、《導きを神に求めていくための方法論》です。目的が曖昧であったり、誤った目的、例えば霊的現象を期待しこれを求めて『正念、正定』を行うとしたら、神の導きはあり得ないでしょう。

 「2 心とは何か-⑥ 真我と偽我」で述べるように、反省の目的[①~⑤〕は、結果として真我でこの世を生きる事の探究を含むものです。それは同時に、個人の自己実現と幸福を追求するための指針となります。そして、個人としての自己確立は個人の幸福にとどまらず、更に発展して社会への貢献へとその情熱は必然的に向かっていくのです。

 ですから、反省の究極の目的は、今世における自己確立と社会への貢献であり、更に今世と来世を通じる永遠の魂の進化・成長にあるのです。

1-4 心の動きの観察

 更に、過去のことはともかくとして、現在、今という瞬間の心の動きについて反省するならば、生きている限り反省すべき事は際限なくあるはずです。更に、常に自己の心の動きを観察する習慣を付けて、できるならば念いを発した瞬間に反省し、その念いを修正して、行動に至らないように努力していく事が大切です。

1-5 反省を楽しむ

 悟りたいという意識、霊的能力を獲得したいという意識を持ちながら、反省するのは正しくありません。それ自体が執着となってしまいます。また、本来の目的をしっかりと理解した上で反省を行わないと、反省自体が楽しみではなくなってしまい、徹底的にやったけど「悟れない」「苦しい」「辛い」ということになり、結果として続けられなくなります。

1-6 悟りとは何かを理解する

 特殊な精神状態を「悟り」だと理解している人には、何も言うつもりはありませんが、「悟り」とは心の底から信念に変わるまで判る・知るということであり、別に特殊な経験や精神状態を言うのではないと私は信じています。

 例えば、瞑想と精神統一によって特殊な精神状態を得るための訓練をすることを私は否定しませんが、その結果として一定の悟りを得ることがあったとしても、それ以上のものではありません。

 悟りとは智慧の獲得であり、それは経験・知識・表面意識における知恵などから昇華され、結果として魂または真我に蓄積していく結晶の様なものであり、言い換えれば魂の成長と進化と同義語です。

 ですから、瞑想と精神統一によって特殊な精神状態を得たところで、様々な智慧が獲得できるわけではありません。『人を愛し、人を活かし、人を許す』という命題を、日々の生活の中で個人個人が追求し実践し、そして様々な洞察を続けていく中にこそ、智慧の獲得があり、悟りの階梯があるのです。「1.心と脳、霊、悟りとは何か」を参照。
 
1-7 魂と心の開放感

 また、反省すると苦しくなったり、自分がいやになったりするとしたら、何かが間違っていると思います。反省は、悩みのない、迷いのない不動の自分へと自らを改造していくための方法なのですから、むしろ心と魂が解き放たれるという開放感が次第に増していく事を感じるべきものです。

 「③ 自分を許す事」を反省の目的の要素として掲げましたが、自分を許せない人間が他人を真に許せるはずがありません。自分は不完全な人間、小さな人間、至らない人間であることを知った上で、その自分を受け入れる事ができなくてはならないのです。つまり、自分の中にまず神性を見出し、その結果として他人の神性を拝み出す事ができるのです。

 この手順ができていないと、反省は堂々巡りとなり、反省地獄に堕ちていきます。

2.天国の条件/マタイ《自分を低くする???》真の意味

 私は謙虚だと思っている、そう考えている人は結構多いと思います。いや、街角で問えば、全員がそう応えるかも知れません。『私は謙虚な人間ではありません』と言う人は居ませんし、貴方は謙虚な人ではないと言われなら、大抵の人は怒るでしょう。

 これは、何故でしょうか。人間は天国からしか生まれて来ることができませんが、魂の記憶として焼き付けられているのであり、それほどこの言葉は大切な意味を持つと私は思います。謙虚さの本質とは何か、また反省と謙虚さの関係を考える上で、ここでマタイの《自分を低くする》という教えを考えてみることにします。

マタイ[18-4]に、                

[18-4] この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

 というのがあります。この《自分を低くする》と《偉い》の部分を、多くの人は誤解しているように私には思えます。低くする、人より自分を低くする、すなわち人を立て自分は隠れるようにする、身を低くしているのは天国で偉くなるためだ、この文章からそう理解するとしたら、それは誤りです。

 この日本語は大いに不自然です。ここで、原文である英文を見てみましょう。

[18-4] Whoever humbles himself like this child, he is the greatest in the kingdom of heaven.

   humbles : 謙虚にする、謙遜する、かしこまる、という意味の言葉です。
   great : 偉大な、優れた、崇高な、尊い、すばらしいとかいろんな意味に使われる言葉です。

 ですから、私が翻訳するとするならば、

[18-4] この幼な子のように謙虚である者が、神の国では最も尊い者である。

 神は最も謙虚な方である、だからあなた方も謙虚でありなさい、とイエスは言いたかった、と私は思います。これは、ある弟子が《天国では誰がthe greatest ですか》とイエスに尋ねたところ、イエスは幼子を呼び寄せ、心を入れ替えて幼子のようにならなければ、天国には入れないであろう、と応えたのですが、その次の言葉がマタイ[18-4]の言葉なのです。

 日本語の聖書では、the greatest を一番偉い人と訳しています。しかし、神の国で誰が一番偉いのか、などと質問をするわけがありません。仮に偉いという言葉を使用しても、それは尊いとか崇高とか価値の高いというような意味でしょう。

更に意訳するならば

[18-4] 神は最も謙虚な方である、だからあなた方も心を入れ替えて、謙虚になりなさい。

 という事です。《謙遜・へりくだる、身を低くする》という言葉と《謙虚》とは似て非なる言葉であり、全くその意味が異なります。言い方が必ずしも適切ではないかも知れませんが、前者の意味にはその人の何か意図的な要素、または形式的な要素が含まれており、純粋・純真から遠い存在です。純粋・純真に最も近い適切な言葉は、《謙虚》以外にはないのではないでしょうか。

 このマタイ[18-4]の翻訳が適切でないために、多くの方々は誤解し、正しい意味を知らないまま生活をされています。その結果、知らず知らずのうちに、次第に純粋ではない方向へと、心と魂が歪められていくとしたら、大変悲しい事だと私は思います。 

3.進化する《謙虚さと反省》
            
 それでは窪田光治は謙虚か、そう問われると、そう努力していると応える以外にありません。私は、毎日常に《真の謙虚さ》を維持しているという自信はないのです。しかし、謙虚さが大事である、ということを忘れないようにしています。

3-1 素直さ

 謙虚さに近いものとして、素直という言葉があります。では素直とはどういうのが素直でしょうか。辞書によると、《考え・態度・動作がまっすぐなこと。ひがんだ所がなく、人に逆らわないこと。心が純真さを失っていないこと。》と書いてあります。

 要するに、真我の状態とほぼ等しいと思います。真我とは迷いや悩みのない、引っかかりのない純粋な心と私は考えていますから、素直な心、謙虚な心とほぼ同じだということになります。

3-2 迷いと悩み

 自分では気がつくのは難しい事ですが、迷いや悩みがあると、なかなか素直になれないし、また謙虚にもなれない。逆に素直になれない、また謙虚になれないから、迷いや悩みの原因を作ってしまう。また迷いと悩みからなかなか脱却できない原因もここにあります。

 真我の状態でないと反省はできないと前述しましたが、要するに素直で謙虚な気持ちで反省をすること、そうでないと正しい反省はできないということです。当たり前といえば当たり前です。では、悩みや迷いがあると、それはどうすれば良いのか。

3-3 迷いと悩みからの脱却

 これを解決するのも反省だというと、矛盾するように見えます。本題から外れますが、簡単に説明すると、《悩む・迷う》と《考える事・洞察する事》は見た目には同じように見えますが、本質的に全く違うのです。

 まず現況を全面的に一旦受け入れた後に、考え洞察することに心の舵を切り替える事で、それは悩みや迷いとは違う《解決すべきテーマ》になります。また、ひとまず悩みと迷いを切り離し(裁断し)、開放された自分を確認してから反省に入ります。

 釈迦の八正道は反省の方法を説いたものですが、実を言うと、それは物事を洞察するという要素を持っており、釈迦の教えの大事な柱であると私は考えています。従って、洞察を伴わない反省はなかなか本物になっていかないのです。

3-4 反省と謙虚さは進化する

 本題に戻ります。この謙虚さ、素直さ、というのがなかなか難しい事を、私も皆さんも知っています。この世の様々な波動に心が影響を受け、引きずられる、惑わされる、幻惑される、誘惑される、肉体を持ち、生きていくためにはいろんな事があります。

 「1-3 反省の目的を知る」で前述しましたが、霊的能力や神秘体験を求める気持ちが少しでもあると、いつの間にか本来の反省の目的から外れていきます。ですから、徹底的に反省したと言っても、神のみぞ知るであって、外見だけではわかりません。自力天狗になってくと、正反対の方向に行ってしまいます。

 ここで何が言いたいかと言うと、本来の目的を忘れずに正しい反省を続けていくならば、反省が深まるに従い、より謙虚になり素直になっていく、そうすると反省もより深くできるようになる、そうすると更に謙虚に素直になっていく事ができるのです。すなわち、

反省の深さと謙虚さの度合いは互いに進化する

 ということです。ですから、これでもう充分だということは絶対にありません。高橋信次著「人間釈迦」においても、釈迦は悟りを開いた後も日々反省を続けた、という記述があったはずです。

謙虚さの究極は無我に通じ、神の心に通じる。 
神は最も謙虚な方である。

 ですから、謙虚さというのは、心の探究を志す者にとって片時も忘れてはならない心の状態であり、また心がけであると言えます。

4.謙虚さの本質
                 
 謙虚さが如何に大切か述べてきましたが、謙虚さの本質について、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。順不同で、私が前述した内容を要約すると、

① 謙虚さに近い言葉は素直さである。
② 神は最も謙虚な方である。
③ 悟りの階梯を登り続けるには、謙虚さを忘れてはならない。
④ 反省と謙虚さの度合いは互いに進化する。
⑤ 謙虚さの究極は無我に通じ、それは神の心でもある。
⑥ 神の国では、謙虚さが最も尊い。
⑦ 反省を正しく行うには謙虚さが必要不可欠である。


 この様な内容を軸に、謙虚さについて考えて参りました。ここで、素直と謙虚さの違いについて考えてみましょう。

4-1 謙虚と素直の違い

 次のように考えてみるとどうでしょうか。

 子供のことを素直と言うが、謙虚とは言わない。大人に関しては、素直と謙虚という両方の言葉を使用することができるが、通常は素直と言わず謙虚と言うのが適切な使い方である。

 ということは、謙虚は素直と何かを合成したものであると言えます。では、謙虚にはどういう要素が更に必要なのでしょうか。大人と子供の違いは何でしょう。力や知恵の差、様々な経験の差、価値観や世界観の差が圧倒的に大きいのです。自分の目で確かめられる世界、想像できる世界など、どれをとってもずいぶん大きな差があることに気がつきます。

 大人と子供の違いを、人間と神に置き換えてみたらどうでしょうか。人間は神の子ですから、全く同じです。やはり、圧倒的な差があります。イエスは言いました、《幼子のように心を入れ替えなくては天国に入れない、天国では謙虚さが最も尊いのである》と、マタイ[18-4]を引用して私はそのように説明してきました。

 すなわち謙虚さというのは、能力や智慧のより高い人に対して使われる言葉である事が分かります。

4-2 謙虚さの本質

 《神は最も謙虚な方である》ということは、魂の成長するほどに、すなわち悟りが深まるほどに、経験が豊富になるほどに、勉強すればするほどに、より謙虚になっていく、そして謙虚さとは無限の深さを持つ、という事になります

 学べば学ぶほど、より広い世界感を獲得し智慧も深くなっていきます。そうすると、小さな虫、自然、あらゆる事柄の中に、神の息吹を感じる事ができるようになります。つまり、あらゆる事柄、あらゆる人から学ぶべき事があることに気づくわけです。ですから、大人が子供に接するとき、子供の中に神性を観、神を感じる自分であるならば、子供からも多くを学べるはずです。

 小さな虫達がせっせと働く姿に、また朝露に濡れた草の葉に、透明な小さな水滴が朝陽を浴びてきらきらと輝きながら、今にも落ちそうになっている、そういう中にも、広大な宇宙が存在し、一つの閉じた世界(次元という世界)がある、そういう姿を観ることができるということです。

  冷気触れ 宿りし玉も 一世界
               朝陽を浴びて また露と消ゆ


 三年前のつたない歌ですが、私の言いたいことがわかっていただけるのではないかと思います。神は、人類の進化と魂の成長を願いつつ、我が子の教育を通じて自身が更なる成長を続けているのです。(ここの神は、地球統治の神、九次元の大指導霊を意識して言っています。)神が最も謙虚な方である理由がお分かりいただけたと思います。

実るほどに頭を垂れる稲穂かな

これが、謙虚さの本質です。そして、謙虚さは、悟り、真我、無我と極めて近い大切な言葉であるのです。

5.終わりに

 ですから、歳を取るに従い、学びが深まるほどに、また修行が深まるほどに、謙虚になっていく自分を感じ、またはなろうと自分を意識することができるならば、その方は少なくとも《修行の王道》を歩いている、そう私は思います。 



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